Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

想像が生み出す限界と未来

原発デモなどを巡る議論が盛んな状態ではあるが、実際には原発容認派と原発即時撤廃派の間には議論と呼べる接点はほとんど存在していない。お互いに考える思想を声高に叫んでいるケースが多く、議論をツールとして妥当な結果を生み出そうといった建設的な動きは全く取られていないと言っても良い。落としどころを考えることなく自己の主張を押し通そうとしても、それは結果的に主張したというポーズを示すことのみしかできないことは容易に予想できる。それは、両者共に事実の積み重ねにより結論に至ろうとしているのではなく、想像を根拠に自己の主張をしているからであろうと思う。積み上げであれば事実と想像を組み合わせて結論を類推することもできようが、その構築無しに想像のみでの行動は説得力に今ひとつ欠ける気がするのである。反原発運動も、仮にそのムーブメントが国中に広がれば何かが変わるかもしれないという期待がないわけではないのだが、単純にサイレントマジョリティとノイジーマイノリティの争いだと社会が認識するに終われば、おそらくはかつての安保闘争などと同じような一時的な熱狂に終わるであろう。そういえば少し前にも国民総背番号制に反対するなどと大きな声が上げられてきたものだが、そんな法案は今ほとんど反対運動が展開されることもなく成立しようとしている。
そしておそらく安保反対も原発反対も、そして国民総背番号制反対も運動している面子はさほど変わらない。だとすれば、結果から見ればどれも壮大なお祭りの一部でしかない。現実にその運動が実らなかったことで私達の生活が決定的に冒されてしまったのか。そう言う人もいくらかは存在するであろうが、あくまでマイノリティである。

しかし、考えてみればこうした行動に限らず様々な場面で社会を動かす起点になるのは、思い込みであったり想像であったりという感情的な行動である。結果的にはこうした感情的な動きで全てが決まるわけではないのだが、一時的な情動のパワーを感じないわけにはいかないとも感じている。
感情的な行動は、事実を理性で理解して動くものではない。事実らしき現象から派生する観念により突き動かされるのであって、事実であるかどうかよりもそれをどう感じたかが問題とされる。逆に言えば感情的な行動だからこそ多くの人が同調し、一定以上のパワーを持った運動になるとも言える。特に、「怒り」という感情が源泉となっている時にはより大きな動きとなりやすい。
もっとも、怒りという感情が中心であればあるほど、一時的な盛り上がりは大きくなっても持続性に乏しくなっていくというのがこれまでの運動のパターンではなかったか。すなわち、持続性のある大きな運動として継続していくためには強烈な感情による衝動的なものでは不十分なのであろう。

それは、想像によるイメージが時間の経過により徐々にではあるが明らかになっていくというのも関係しているかも知れない。仮に感情論で何かを変えたいのであれば結局とのところ一気呵成にそれを進めなければならないが、民主主義のシステムが根付いた状況では実質的に不可能である。そして、それをわかった上での運動を行っている者たちは、一種のお祭りとして自身のアピールをする機会として程度でしか捉えていないのだろう。
想像の先にはそれを実現化する的確なステップが必要であり、感情のみ発露は一種のイベントとしてしか記憶されないのだろうと思う。歴史的にはそうであっても、短期のイメージアップには利用できるため政治活動はこれらと大きく結びつくが、あくまでその程度のものでしかないことが少々悲しくもある。