Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自分の心を傷つけるのは自分

 いつの世にも人は人を傷つける。人の本の意に刻まれた性であると言ってしまえばそれまでであるが、意図して行うこともあれば期せず至ってしまうケースもある。いじめなどでも良くある話だが、人はみな自分のことを都合よく考えるものだ。「いじめているのではなく一緒に遊んでいる」、こういう言い方がまかり通るのは、いじめと遊びの境界線を引くことが難しいのもある。パワハラも同様であろう。だが、人が人を傷つけるのは物理的な面では直接の行為で明確であるものの、心理的な面では必ずしも直接的なものとは限らないことが大きく影響する。

 私は、多くの場合において最終的に自分の心を傷つけているのは自分自身だと思っている。だからいじめられている側、攻撃されている側が悪いと言いたいのではない。むしろそれを自覚することこそが、いじめやパワハラなどの言葉の暴力から抜け出すためのきっかけになると思うからこそ、この問題を考えてみたいのだ。

 

  特段の理由無く人を攻撃する人は、基本的に心の弱い人である。誰かを制圧することで心理的な優位性を感じ満足する(自己肯定)。あるいは家庭や他の集団において自分が受けた抑圧や不安解消に利用する(代償行為)。問題は、多くの場合にいじめや攻撃している人は自分が弱いとは思っていないこと。もちろん悪いとも心の底からは思っていない(露見すると不味いと思うことはあるだろう)。それを自分の心理で自己正当化している。だから、「遊んであげている」とか、「指導している」などという言葉が飛び出してくる。その裏に隠された自分自身の無意識を、半分ほどは理解しつつも、隠し自己の正当性を全面に押し出そうとする。これは、攻撃する人自身の精神を守ろうとする行為でもある。誰もが自分の弱さを認識したくはない。だから事が問題になった時には、いじめられている人の悪い部分を一生懸命取り上げようと焦る。

 しかし、そんな身勝手な理由でいじめられたり、攻撃されたりする方は堪ったものではない。本来は、事実関係を冷静に見定めて記録し、第三者に伝えることができればこうした問題はある程度回避することが可能であろう。客観的に見れば、いじめやパワハラが良い様に評価されることはない。いじめ行為などは、自分に被害が及ばない範囲で行われる娯楽の一つである。ただ、無自覚的なそれは奇妙なあるいはねじ曲げられた義務感により支えられているケースもある。また、いじめられる側も冷静に問題を認識出来るほどの余裕が有れば、そもそもいじめやパワハラが極端な状態にはなりにくい。

 

 だが、いじめられている人の心理を想像すると、抵抗や反撃するという行為をこれまた正当化しないでいることが見て取れる。反撃したいという気持ちはあり、だがその方法を冷静に考えられないし、単純に反撃しても地位や力で負けてしまうことしか想像出来ない。そのため、逃げ場のない絶望感に打ちひしがれてしまう。要するに、自分自身の無力感に自分自身がダメージを受ける。冷静な思考が出来ない様な状態に追い込まれてしまい、それが悪循環となって自分の意識を悪い方向に遷移させる。

 もちろん、全てのケースがこんな簡単な心理状態だとは思っていない。だが、有効な反撃の手段を持っていたとすれば、例えば教師が親であるとか、地域の有力者で学校に圧力をかけられるとか、より立場が上の上司が知り合いとか、そんな状況があればいじめられるままに堪え忍ぼうとはあまり考えないだろう。あるいは人に頼ること自体が悪いことの様に考えてしまっているケースもある。自分で解決しようとすること、それ自体は必ずしも悪くはない考え方だ。ただ、物事には全て程度があり、簡単な事象は自分で解決した方が良いことも多いが、物事が重大になり複雑になった場合には多くの人の力を借りなければならないものである。

 いじめる側は、多くの場合責任感などを理由に自分一人で対処しなければならない様な状況に追い込もうとする。例えば親の金を盗ませるなどして、親に相談出来なくすることや、仕事上のミスを大きく取り上げて問題意識を高めさせるなど。心理的に追い込まれると、物事の重要性を正しく評価出来なくなり、最終的には何よりも重要な命そのものすら軽視してしまうことになる。

 

 冷静でいることは何より重要だが、それを追い込まれた心理状態で理解し、一人で実践にまで結びつけるのはなかなかに難しい。その余裕が有ればいくらでも反撃は出来るし、そうした状況に追い込まれることすらない。だが、大きな恐怖感等に支配されてしまえば、人は極僅かのことしか考えられなくなる。それが逃げ場であると信じるしかない状態に追い込まれてしまう。

 一方で、攻撃している相手はそんなことは露ほどにも思ってはいない。自分がいじめているとか、パワハラと捉えられる様なことをしているとは全く考えていない。それを指摘されても青天の霹靂の様な反応をする。その程度の認識でしかないことを知っているだろうか。

 心に出てくる恐怖心は、自分自身が生み出した幻影に過ぎない。それを生み出し、力を与えているのは自分なのである。できることなら、そのことに気付いて欲しい。注射を撃たれる前の状況や、歯医者に行った診療前の恐怖心、もちろんリアルなそれもあるが大部分は自分が創り上げる幻影である。暗闇に潜むかも知れない幽霊も、自分に取り付いたかも知れない悪霊も、ほとんどの場合には自分が生み出す妄想である。

 人の心は弱い。だが、弱いことを恐れる必要はない。誰もが弱いのだ。だが、弱くてもしたたかであることはできる。答えは一つではなく、選択すべき道も数多くある。いじめている人間やパワハラをしてる人にも弱みは必ずあるし、何をすればダメージを与えられるかも少し考えれば分かる。反撃するかどうかが重要ではなく、正しく怖がることが大切だと思う。「正しい怖がり方」という言葉も少し不思議だが、怖さを打ち消すことはできない。だが、怖さと共存することは可能である。

 

 そして、怖さとは自分の心理が生み出した虚像。実像を最大限に積み増した、実際よりもずいぶんと怖い存在。それは自分自身が作り出した敵である。明晰夢という、夢であることを認識している状態で見る夢と同じように、それが夢(虚像)であると自分に言い聞かせられること。それができれば、実は怖さが大きく減少することは多い。

 それを獲得するためにこそ、人の力を借りればよいと思う。もちろん、普段からそのような相談出来る人がどれだけいるかは、また別の話として重要となる。私は、自分の子供が自分に対していつでも好きな質問を気軽に出来る関係を築くことを最大限重視してきた。それは将来子供が苦しい状況に追い込まれた時に、助けを求められる様な関係を築くためである。もちろんそんな事態がないに越したことはない。だが、自分で自分を深く傷つけてしまうようなことがないように、そう考えると、気楽にはなせる人と人の繋がりを少しでも太くしたいと考えるのだ。