Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

文明のネックは電気

震災後の計画停電原発かどう問題などを経て、私達は電気の大切さを再認識させられることとなった。未だに議論が続いているのは電気の質と量である。
生活を考えてみれば、電気に大きく依存していることが非常によくわかる。家庭生活も工場生産もその大部分は電気なしに成立しない。デスクワークの仕事も、情報伝達の手段もその通りである。電気により豊かな生活が維持できてるのは間違いないが、逆に考えれば電気への依存無しにそれを実現する術がない。もちろん、都会ではなく田舎で電気なるべく用いない生活というのも無い訳ではないものの、それが多くの国民が望む姿ではあるまい。

脱原発運動は考えに理解を出来る部分はあるのだが、理想と現実を無理矢理つなぎ合わせたような主張に不完全な部分を感じずにはいられない。将来的な脱原発傾向は多くの人も認める部分であるが、今すぐに電気の不足する社会になっても良いと言い切れる根拠が何処にあるのかが私にはわからないのだ。
「たかが電気」という言葉も出ているようだが、それは現代文明をあまりにも低く見積もりすぎではないだろうか。ある種社会における成功者の見下した言い方のような感じがするのだ。
電気が最も恩恵を与えるのは、何も社会的な強者ではなく弱者に対してであると思うからである。電気という存在があまねく社会に広がり、多くの人が容易に手に入れる陳腐な存在になっているからこそ、誰でもがその恩恵に浴することができるのである。代替電気が入手できるとしても、それがコストアップを前提としたものであるとすれば現状の電気が保有する陳腐性が低下する。それは取りも直さず、弱者にしわ寄せとして行くのである。
強者からすれば命より大切なものはないと主張できるであろうが、弱者からすれば電気のコストは命のコストに大きく影響する。電気=命ではないものの、電気は一定の文化的生活を維持する上での大きな要素であるのだ。

安くて豊富な電気は、文明のトップを潤すのではなく文明の底辺を掬い上げるボトムアップの基盤なのである。それは既にインフラストラクチャーとしての性質を有している。例えば、道路など無くてもやはり人間は生きていける。道路があることで、自動車が走り公害をばらまき、交通事故により人命が損なわれる。命が何より大切であるならば、自動車が走る道路の存在すらも否定されかねない。
しかし、それは多くの人の生活を維持するために必要である。特にお金のある人にとっては自分でお金を払ってでも物資を得ることができるだろうが、一般庶民にはそれはできないのだ。一定のインフラが整備されていての文化的生活なのである。

原発を危険視する気持ちは判らなくはない。もちろん、私はそれでも技術は人間が制御すべきだと思うし、原発自身を即時全て停止するなどという考えには同意しないが、スローガンとしてのそれは全く理解できないわけではない。ただ、そこには無責任さが同時に介在していると思う。
それは、原発の否定=電気の価値を貶める。。。という構図に見えてくるように、原発停止により社会に表面化する不都合に対する代替案を結局のところ持ち合わせていないと言うことなのだ。だからこそ、本来価値あるものの価値を不当に下げて取り扱ってしまう。
確かに文明の基盤は電気であり、その基盤を維持するための方法論は原発である必然性はない。ただ、その電気の質とコストが毀損してしまえば文明そのもののレベルもダメージを受けるのである。そのダメージは文明の底に最も強く影響を与える。文明全体が下がるのではなく、文明の底が下がるのだ。そのことを考えた時に、現在のヒステリックにも思える原発全停止の運動には賛同できないと感じてしまうのである。