Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

節制と抑圧と

節制と抑圧は似ているようで異なるものである。節制は自己の選択により、抑圧は他者からの介入による。実質的には同じことをしていても、感じ方は正反対であろう。
例えば自らがダイエットを志したのであれば、食事制限も少なくとも最初のうちは受け入れられる。しかし、それが医者からの強制であれば、その必要性は認めても容易には受け入れられない。理性的に考えれば両者は同じ目指すべき事実を示している。同じことでもとらえ方によりまるで異なったものとなってしまう。もちろん、とらえ方が同じであるすなわち同じ目的がある場合に限られる。上記の場合で言えば健康維持であろう。

家では勉強しなさいと親に説教される。もちろん勉強した方が良いことは自分でもわかっている。
しかし、親に言われてするのは嫌だというケースも多いだろう。「勉強することに意味が見いだせない。」なんて言葉を聞くこともあるが、考えてみれば本当に突き詰めて勉強することの意味を考えているのかは疑問がある。本当にそれが考えられるレベルまでの思考能力があるとすれば、それは相当勉強を積んできたと考えても良いではないか。おそらく多くの場合には、勉強をしたくない理由として都合の良い言葉を吐いているに過ぎない。相手が反論するのが難しい理屈を利用しているだけである。本当に勉強よりも大切なものを見付けられるのであれば、それに向けて全力で取り組めばいいが、これまたモラトリアムを楽しむこと陥りがちである。
しなければならないことは頭で理解しているものの、それを感情的に受け入れられない状態というのが存在する。要するに、感情的に受け入れられなければ駄目なのだ。その結果、本来節制として捉えられるべきものが抑圧へと変貌する。

さて増税論議なども盛んであるが、こちらも似た構図が透けて見える。総理は節制を呼びかけ、国民はそれを抑圧と取る。政府は節制のイメージ作りに必死になるが、国民の多くはその節制が本当に意味があるかを疑問視し始めている。
考えてみれば、節制は自らが決めることであり、押しつけられる節制はそもそも存在し得ない。少なくとも説得されて自主的に節制を意識しなければ、禁煙にチャレンジするヘビースモーカーと同じように容易に心はくじけてしまうだろうし、そもそも挑戦すらしないかもしれない。
政府は、震災や年金などの将来不安に絡めて増税を節制としてイメージづけたいようではあるが、要するに抑圧なのである。それを抑圧として反発される覚悟できずに、自主的な抑制と感じさせようとするから話がややこしく感じられる。
そう言えば、ギリシャの債券ヘアカット(実質的なデフォルト)も民間金融機関に自主的に債務のヘアカットを認めさせるというものであった。自主的と言いながら実質的には恫喝に近いものであって全く自主的でないのが増税議論と似ている気もするのは笑うべき点であろうか。

さて、節制は基本的に自らが自らのために行うことである。そして抑圧は、他者によりもたらされる制限であるが、この場合他者は自らと同じ制限を受けるとは限らない。現実にはこの両者は全くの別物という訳ではなく、判断の委任として決断を他者に委ねて自分はそれに従うというケースが少なくない。すなわち、構図としては抑圧の構図なのだが、それを自主的な判断と擬制する方法である。増税のケースで言えば、政府が十分考えて説明するのであればそれでいいと考えることであり、病気の場合であれば医者を信用しているというのもそれであろう。
社会において様々な問題に対していかなければならない我々にとっては、こうした擬制は問題処理の合理化において欠くことができないものでもある。もちろん、その擬制は信用という前提により支えられている。そして、往々にしてこの場合には責任転嫁が行われる。判断の委任をしておきながら、それでも責任を判断者に擦り付けるのは自己正当化の為せる技である。

何かをしなければならないときに、自分で考えて自分で決めて、そして自分で行動する。これがもっと望ましい姿であることは間違いない。あるいは、そう思わせることができるかどうか。感情がそれを許容できるかどうか。ポイントはそこになる。
理性的にはそれが必要だとわかっていたとしても、感情が許さなければ自主的な行動には出にくい。例えば上記の増税についても震災直後は、震災復興のためには止む無しの声が大部分であった。それは感情的に受け入れられるものであったのだ。ところが時間が経過し、約束していたはずの公務員給与の引き下げなどが実質的に何も実現していないままに増税されるとなり、ここで感情が増税を許さなくなった。現状ではそんな感じであろうか。

節制は、自分で思い立ったと思わなければあまり効果はない。仮に抑圧だと受け止められることを許容できないのであれば、そう思わせるだけの説明や身の律し方などが必要であり、それが容易でないからこそ普段からの信用を身につけておかなければならないのであろう。

「一度壊れた信用を、同じ体制で短期に回復することはほぼ不可能に近い。」