Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

モノと夢

「やっぱり、今の日本の若者は恵まれている」というコラムが一部のニュースサイトを賑わせていた(http://www.j-cast.com/kaisha/2012/01/30120391.html)。現在が、モノに恵まれていること自体は事実として認めても良いとは思うが、だからと言って生きる環境として恵まれてるのかと言えばそれは必ずしもそう言えるわけではない。
物質的に豊かであるのを信条とした時代であるならともかく、現代は物質的なモノのみの豊かさは否定されようとしているのが一般的な考え方だと思う。いや、確かに数十年前には夢となる豊かさはモノに溢れた状態だったかもしれない。しかし私達は学んだ。豊かさとはモノだけでは埋めることができないと言うことを。

その上でもう一度この問いかけについて考えてみたい。物質的に豊かになったからと言ってそれが幸せに結びつかないのであるならば、今の日本の若者は恵まれているとは必ずしも言い切れない。過去の尺度で考えれば恵まれていると判断になるかもしれないのであろうが、現代が同じ尺度で量れるわけではない。
もちろんそれを甘えと呼ぶのは容易であろう。しかし、容易に甘えと切り捨てて誰もが納得できるならまだしも、それができないからこそ社会に停滞感と閉塞感が溢れているのではないだろうか。
逆に考えてみれば、むしろ今の老人の方が恵まれていると言っても良いかもしれない。団塊の世代は、がむしゃらに働いたであろうことは確かである。それでも段階以前の世代の人たちの努力で成長のレールに乗ることができ、今は若者達の支払う税金で暮らしていこうという状況でもある。人口ボーナスという言葉も存在するが、そのボーナスを受け取っているのはまさに老人達なのである。

さて、それではこのモノに溢れた現代日本において、恵まれていると言われる人々はどういう存在なのだろうか。これは価値観が多様になったこの時代においては規定することは容易でないかもしれない。ただ、思い切って言わせてもらうならば自分の果たすべき役割を自分で認識し、それを受け入れる家族なりの環境があることではないかと思う。要するに、やりたいことがありそれを実現できる環境があること。
それを「夢の実現」だと言えばわかりやすい。
お金は必要条件ではあるが、十分条件ではない。同時にモノは必要条件ですらないかもしれない。
だとすれば、単純にモノのたっぷりある豊かな生活を夢にできた過去の人たちの方が、心理的には恵まれていたのではないだろうか。夢が明確であると同時に高度成長期という追い風を受けて実現する過程を経ることができたのだから。
もちろん、今の若者もそれを目ざせばいいと言う話にはなるだろうが、社会が成長から停滞に移りつつある時代に個の力のみで夢を実現することは容易ではない。
個々に夢を抱く若者が現代でもいないわけではない。ただ、夢が抱きにくくなっているのではないかと感じずにはいられない。それは、夢が叶えられるという自信を失っているところと繋がる。

何かを変えるという声はいつも新鮮だ。そこに具体性がないと多くの識者が批判するが、具体性はなくともそこに夢を載せることは可能である。一種危うげにも見える若者達の意見は、モノではなく夢を見るために足掻いている姿だとは思えないだろうか。

「夢も、自由も、それを得てからのことではなく、それを得る瞬間を経験するために意味がある。」