Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

文化人風タレントはなぜ反橋下なのか

少し前、「朝まで生テレビ」や「報道ステーション」などで橋下大阪市長と彼に批判的な文化人(私はその大部分が文化人風タレントだと感じている)の議論がメディアの電波に乗った。
文化人側はそれなりに成果があったような言い方をする人、あるいはメディアを変えて別の方法でまた追求する人などいろいろあるようだが、私が見た範囲においては反橋下派のレベルの酷さに呆れかえった。
まず、間違いなく反橋下の旗を掲げているにも関わらず中立の立場を何とか取り繕いたいのが目に見えて、軸のぶれ方が甚だしい。加えて、事実誤認も多く詳細な事実確認もほとんど行っていない。
要するに、気にくわないと噛みついているのみである。
一応、文化人と銘打って出てくるのであれば、時間が無いなりにそれなりの準備をして出てきて欲しいものである。逆に考えれば、これほど説得力のない根拠のみで議論に挑もうという蛮勇のみについては、度胸としては認めてあげても良いと思う。
ただ、私が思うにはこの討論の結果が橋下市長をより信任させる結果になったのではないかという意味において、文化人風タレント側の大敗北であろうと思う。もちろん、彼らはそれを認めないであろうが。。

私達が見たかったのは、橋下市長が進めようとしていることの根本の部分でどのような弊害が出るのかを明確に説明して、その対案として時間はかかるがこれしかないという方法論をきちんと説明してくれるような場面である。それが見られれば対立構造がはっきりとするし、反対派に対してそれなりの理解や支持もできたであろう。
ところが結局は大きな社会構造の議論からは逃げまくり重箱の隅をつつくような内容に終始したり(朝生に出ていた薬師院とかいう教授は本当にレベルが酷かった)、自称精神科医のように不安であると言うことのみを理由にして現状を批判するという、対等の議論にはなり得ない状況を自ら作りだしていた。

では、なぜ彼らはこれだけ批判的なのだろうかと少し考えてみたい。元々、彼らに左派に対するシンパシーがあるという面が根底に存在するのだろうと思う。だから、その中心的な舞台である教育や公務員の一部への生理的かつ条件反射的な反発がスタートにあるとは思う。ただ、だからと言ってそれが全面的な対決姿勢へとすぐに移行するものでもあるまい。敢えてこれらのイデオロギー的な部位を除いた上で考えを進める。

まず、橋下市長が進めようとしているのは基本的に今以上の住民自治という面である。これは、本来であれば左派的なイデオロギーには合致しそうな雰囲気であるのだが必ずしもそうではないようだ。
住民が主体的に判断するということは、教員や公務員などの振るう部分・権限を縮小しようというものである。これまでも何度も日本国中で住民参加が謳われてきたが、本来は住民参加ではなく住民自治である。その自治のうちの一部を公務員などに委任するのが地方自治の姿だと思う。ところが実質的には、こうして委任されたはずの権限が住民自体を実質的に動かす権利へと変わってしまっている。言い方が正しいかどうかはわからないが、半エリート指導層である教師や公務員という流れだ。それは、労働組織などでも同じである。かつて労働貴族などと言う言葉が流行ったこともあるが、ごく一部ではあるが地方自治の一部(例えば教育であったり、公共工事であったり)を動かしているという自負と絡み合いながら、それらは自分たちをほんの少しの優越層として位置づけている。

住民自治は、ある意味現状以上に地域住民にお金以外の負担を課す方法である。要するに、自治体には出す金がないから自分たちで何とかしろと言う話と考えて良い。なんでも、役所に押しつけておけばよいと言う時代は過ぎ去ったということだ。何も橋下市長が何でも解決してくれるのではない。
ところが、これが進むと文化人風タレントも困ることになる。それは、公務員などが実質的に地方の政策を動かしていた時代には、そこにクレームを付け様が好きなことを言って様が、実質的にはその言質は無視される。そして無視されるからこそ、マスコミで取り上げられ放言を続けることが可能な気楽な立場であるとも言える。住民も自ら責任を負ってないからこそこれら放言にも価値を見出し、文化人達は社会的影響を保ち続けられる。
ところが、本格的な住民自治が始まればそうはいかない。適当な戯れ言は実戦の下に糾弾されうる。言うだけの評論家の価値は激減する。それは何かというと、彼らの存在意義の否定である。

彼らのアイデンティティーは、資本や権力ではなく知識で国民を指導できる立場にいることである。それが自らの満足に結びつくと共に、経済的にもメリットを持つのだ。
そして、それは現状の社会体制の下に構築されているため、それを批判して益を受けながら実のところ現状の社会体制に生かされているという矛盾を抱えている。結局の所、彼らは現状の社会体制が変わってもらっては困るのだ。
もちろん、口ではそんなことを言わない。
しかし先日の討論を見ていて、彼らの口から出てくる言葉は全て、変革への疑問と不安である。それは何を意味しているのか。なるべく今を変えないと言うことであるのは間違いないであろう。

橋下市長の主張が全て正しいとは私も思わない。新自由主義的な行動には問題も感じる部分はある。ただ、現状の体制が時代に合わないのであればそれを替えようという言葉の下に、これまで手を付けられなかった聖域に切り込むこと自体は強く評価している。壊していいのではないが、壊すくらいのつもりでかからなければ手を付けられないのだ。
それは、マスコミが「既得権益」と呼び大企業などを想定して見ているものと実質的には同じである。既得権益の全てが悪いとは言わないし、その全てを再構築などできるはずもあるまい。ただ、それに安穏としながら中立的なフリをして外野で叫ぶ文化人風タレント達に説得力がないことは間違いないだろう。

「ひょっとすると、彼らは自分たちが壊されるべき存在の一部だと理解していないのではないだろうか。」