Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

気持ち悪いスマホ押し

ガラケーと呼ばれた携帯が急速にスマホあるいはタブレットに変わりつつある。ただ、私個人としては今のところスマホ等に変えるつもりはない。というか、現状の携帯で十分である。その理由は、職場にも家にもネットに接続したパソコンがあるため、敢えて普段から携帯でネットをする必要性に迫られていないと言うことがある。
むしろメールも携帯を利用しないため、携帯の使用は外出先で必要があるときに電話をもらうためというケースが最も多い。自分からかけることも無い訳ではないのだが、もっぱらは受信専用と化している。結果的に携帯においてスマホ的なニーズを必要としてない。写真については、別途耐衝撃性能の高いデジカメをもっているし、音楽プレイヤーとして用いる機会もほとんど無い。強いて言えば、ワンセグを年に数度使うことはあるかもしれない。結果的に、現状のガラケーでも十分すぎる機能があると言うことになる。

個人的な向き不向きは別としても、実質的にコンピュータを外部に持ち出すがごとき存在がスマホのメリットであろう。いわゆるモバイルコンピューティングである。確かに、「どこでもインターネット」はユビキタス社会の一つの理想であった。利便性の高まりは私達の生活をより豊かにするのではないかと考えられてきた。
しかし、ふと思う。現状を生活が豊かになったと言って良いのだろうかと。
確かに、地図情報などを外部ですぐに利用できる(ガラケーでもできたが)、あるいは知りたいニュースにどこでもアクセスできる。はたまた、様々なアプリを必要なときに利用できるというものもあるだろう。
それでも思うのだ。それは本来必要なことなのだろうかと。

実際には、膨大な無駄を人々にさせているのが現状導き出されたユビキタス社会ではないかと感じているのである。本来あまり必要でないことを、例えば通勤の途中で、あるいは外出先で、スマホを持っているから使わなければ損だとばかりに利用する。そんな一種脅迫観念的な「使わなければならない」的なイメージがそこには見える。本当に使わなければならないのかと聞けば、おそらく大部分は必要など無いことではないかと思う。
他方、これも以前に書いたことではあるが、そんな無駄も社会においては重要な役割を果たしているという面も存在する。無駄と言えば悪いイメージがあるが、一種消費行動であるのだから社会経済を回す重要な行為でもある。即ち社会という面で言うならばその全てが悪いというものではない。
ただ、この消費というものは成長に結びつくものではない。いわゆる現状維持に貢献するのみである。もちろん消費性が高まれば経済は好転する。アメリカ並みの消費社会に日本がなれば今とは全く別景色の好景気が見られるだろう。
ただ、それはあくまで日本という国が持っている潜在能力をぎりぎりまで使うことによりもたらされるものである。

物事には、潜在的な能力と実際に使われている能力が存在する。これは両者とも重要なことである。潜在能力の向上は長期的な課題であり、同時に実際に使う能力を高水準に維持しておきたいという短期的かつ現実的な欲求も存在する。ただ、潜在能力が伸びない中でのあがきには未来がない。

スマホが使用者に対してもっとクリエイティブな役割を果たすことができるとすれば、それは社会の潜在力を大きく向上させるツールとなり得るであろう。しかし、現時点を見る限りそれは未来ではなく現在の消費のみに目が向けられている。将来のそれではなく現在の儲けにである。
電車の中で、あるいは外出先で、、、私達は小さな画面と見つめ合わなくても様々な体験や経験を可能である。あるいはそれが思索の場となり、時には休息時間となり、または人との交流の場になる。それを煩わしいと感じる風潮があるのは知っているが、そこから逃げるためのツールとして存在してしまえばさすがに悲しすぎる。
できれば、既存のガラケーもバリエーションを残して欲しいものだ。スマホ一色になるというのは願い下げたい。
少なくとも現状の私にはあまり嬉しくないツールに感じられる。

もちろん、それはあくまで道具であって目的ではない。だから使う人次第でいかようにも変わりうる。
ネットの成長と同じように、これから画期的で創造的な使い方が現れることを期待したい。

「思索の時間を減らすことは、退屈や悩みの解決方法ではない。」