Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

「美」について語ろう

「美」とは何か?
そう問われて、即座に答えられる人はほとんどいないのではないだろうか。
一方で、「これは美しいか?」と聞かれればすぐに返答できることも多い。
誰しも「美」の定義について語るのは難しいが、「美」の有無について判断するのは容易なのである。
だから、「美」は論理的ではなく感覚的に理解するものと考えることも可能である。
これをもってして、「美」を感じる能力は人間が本来的に備えているという考え方がある。
人は美しいものを本能で見分けるという考え方だ。

これとは別に「美」を関知することについてはもう一つの説がある。
それは、「美」を理解するには「知性」が必要だというものである。
そもそも、赤ん坊に「美」を理解できているかはかなり疑問があるし、動物たちが「美」を理解しているかどうかにも疑問がある。それが無いと証明することは困難ではあるが、少なくとも私達が感じるものとは異なるであろう。
それ以外にも、「美」の概念については地域性や時代性によって変化すると言うことは知られている。
例えば女性美についても、平安時代と現代では明らかに違う。
これらは、本能のみが全ての「美」を理解する要因ではないことを示している。
特に、芸術分野などではおどろおどろしい絵画であってもそれを芸術として評価する。それが私達が普段考える「美」なのかどうかはともかくとして、「美」的なものとして扱われているのは事実であろう。そこには、作者の意図や背景を理解するための「知性」が必要となる。

「美」が何に由来して私達が感じるところとなるかは置いておくとして、そもそも「美」とは私達に何を与えてくれる存在なのであろうか。個人的な意見で申し訳ないが、それは広義の「快適さ」ではないかと思う。
一般的には快適さと言えば、暑い日のクーラーなど多大なストレスを和らげてくれる存在を意味するものと考えられがちではあるが、快適さには2つの面が存在する。
それは、消極的快適性(comfort)と積極的快適性(pleasantness)である。
消極的快適性とは、日常、ストレスのない、落ち着いた、融和な、楽な状態による快適性を意味する。
一方で、積極的快適性とは、非日常、非定常、刺激のある、変化のあることによる快適性を意味する。
実は人間にとっては、この両者共が非常に重要な要素なのだ。
自然界や社会による意図しない過大なストレスから逃れるという快適性と共に、変化のない日常に適度な刺激を与えるという快適性の両者がバランスされて存在することが重要なのである。
「美」はこれらを私達に与える存在を意味するのではないかと思う。

消極的快適性は、どちらかと言えば生命(あるいは種)を維持するために必要な快適さであり、積極的快適性は生きることを楽しむために必要とされる快適さなのだ。
生命維持は人間の本能によるところが大きい。それ故、根源的な部分では生き残るために快適さを認知する(逆に言えば危険を察知する)という面で、「美」を人間は本能的に感じ取る能力がある。
しかし、そこに現れる「美」は生命そのもののに限定された狭い範囲(狭義)の「美」になるのだと思う。

他方、生きることをより楽しむための快適性には、身体や頭を用いた様々な刺激が盛り込まれる。すなわち、それを感じるためには一定の理解が必要とされる。これが「美」を感じ取るには「知性」が必要とされる理由だと私は思う。
この幅広い(広義)の「美」にはおそらく制限はありはしない。人間がそれを快適(苦痛も一つの刺激として含まれる)と考えるが故、ピカソゲルニカのような一面醜悪に見えるそれすら、芸術として見ることが出来るのである。
もちろん、それを理解する上では単に感じるだけでなくその背景や歴史などに対する知識や理解が必要なのは言うまでもない。
「美術」という分野は、こうした「知性」を加味した「美」を追求する分野である。それ故、「美」の定義は地域や時代によって変化していくものなのである。

さて、私達は普段の生活において「美」の意味などを気にすることなどほとんどない。しかし、それが快適に生活する上での重要な要素だと考えることができたならば、今以上に人生を楽しむ上での役に立つものとなるだろう。

「もう一つ、『美』には重要な要素がある。それは時間である。時間を経ない『美』は真の意味での『美』ではない。」