Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

後悔と反省

 後悔も反省も何らかの失敗を振り返るものであるが、その両者には明らかな違いがある。誰もが反省をすべきだと知っているが、にも関わらず反省よりも後悔が先立ってしまいがちでもあったりもする。人は考える動物であるが、多くの場合には考えてしまい過ぎる動物なのだ。よく「後悔ではなく反省すべき」という考えが用いられるが、人のすることに意味がないものはない。後悔もそれなりに必要があって行われるべき行為だと私は思う。もっとも、その方法や程度により効果を発揮したり無駄となったりするのは他の出来事と何ら変わらない。

 反省は失敗を次に反映させるために必要な行為であり、仮にある程度成功した場合であっても細部にわたって行う方が当然ながら良いことである。改善はあらゆるものを進化させる糧でもある。ただし、進化論と同じようにこの進化は特殊化であって、一定の状況下に最適化される過程でもあるのは言うまでもない。すなわち、反省は、理を持って行う知性的な行動である。物事を理性で理解できる人にとっては反省という思考や行動は当然のものであるだろうが、最初に感情で理解する人にはなかなか腑に落ちるには至らない。「理屈では判るが納得できない」という言葉が表すように、人は理屈だけでは割り切れないものでもある。
 逆に言えば、後悔はノスタルジックな希望の奔出であったりもする。「あの時こうしておけば良かった」と終わってから考えても何も変わるはずはない。後悔は、理性ではなく自らの制御できない感情をなだめる役割を果たしている。

 かつてのエントリ(感情と理性:http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20110914/1315927542)でも書いたことがあるが、人間の行動原理において言えば理性よりも感情の方が強い力を持つ。だから、感情が理性と一致できるような状況を作り出すことが私達のもっとも望む状況でもある。もっともそれがままならないからこそ私達の心理は理性と感情の間で揺れ動くことになるから厄介なのだ。
 後悔は、理性で無理矢理感情を抑え込んだことに対する代償行為として存在するとすれば、それを無理矢理押し込めるようなことは却って心の自動修復を妨げることであるのかも知れない。むろん、いつまでも後悔していても始まらないのはその通りでありものには限度があるのだろうが。それでも単純に後悔には意味がないと言えるものでもない。こうした存在は無駄話などにも似ているが、その存在自体は無駄なもので生きていくために直接必要がないものであったとしても、間接的には心や精神のバランスを保つことに寄与している。

 あくまで仮定の上での話ではあるが、後悔を上手く生活に役立てようと考えるならば反省に上手くミックスさせることが重要なのかも知れない。後悔のみでは役立たないが、反省のみでは息苦しすぎる。反省の間に適度に後悔を挟むことで自らの感情と理性のバランスを図る。もちろん後悔の必要性の程度は人によりそれぞれであろう。ただはっきり言えることは「後悔は決してネガティブな意味だけではない」と理解して。それに溺れず上手く利用することではないだろうか。
 何事であっても極端は人生においても社会においても歪みを生じるものである。後悔のみに囚われることは決して良くないことは大前提である。ただ、後悔を完全に排除してしまうのも人間である以上は不完全な状態ではないかと思うのである。