Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

知の衰退

 私たちは、生活の中で何かに感動しあるいは何かを楽しむ場合、感情のみで現象などを受け止めているわけではない。もちろん嬉しいとか楽しいという一義的な反応は感情に起因しているのであろうが、だからといって一時的な感覚を情動として全てを受け止めているのではなく、感情に自分の持つ知識や経験を重ね合わせて状況を理解し消化しようとする。芸術作品を見ても、誰もが同じ反応をするわけではないのは、そこに知識や経験の相違があるからである。感情を本能と同一視できるものではないが、私たちが本能のみで生きているわけではないことは誰もが知っている。
 同じように共感や賛同も、感情による反応は知識や経験に裏打ちされている。自ら積み重ねてきたものがあるからこそ、感動し、共感し、賛同することができ、しかもその状況を自分自身で納得することができる。

 理性を重視する観点から言えば、往々にしてこうした感情と知性(知識や経験)はそれぞれ別個のものと捉えられがちだが、私は両者を切り離して考えることにはあまり賛成していない。そもそも感情も経験や知識に裏打ちされており、逆に得てきた知識や経験もそれを身に付けた時の感情に左右されているからである。すなわち、両者は渾然一体となって私たちの体に染み付いている。
 考えてみれば、文明や文化は元々体系化されず不十分であった知性部分を補強補てんすることにより花開いた面があると思う。感情のみでは一瞬の爆発はできたとしても継続的な余韻や様々な広がりを感じることは難しい。感情という起爆剤に連鎖的に反応する知性が数多く広がることで、私たちの社会は豊かさを感じることができる。要するに、どちらかのみが優越するという状況ではない。両者は相互補完的であり、同時に密接不可分の存在である。

 しかしながら、最近ではこの知性の部分が徐々に感情とかい離した形で捉えられつつあるのではないかと感じている。単純な分離ではなく、感情のみを強調するものが増えたり、逆に知性のみが追及される面が増加したりという意味だ。もちろん自然科学の分野では感情を排除し、論理による探求が求められるのは事実であるが、それが社会に生かされる時には分離された知性は感情の衣をまとう必要があるだろう。合理的に物事を捉えるためには、混沌を要因や要素ごとに整理して取り扱う方が都合がよいのだが、それは扱う側の論理であり都合でしかない。社会にとって個々に分離することが有利に働くという理由は何処にもないのである。
 社会は、感情と知性のバランスにより全体として丁度良いところに落ち着くものだと思うのだが、ところが現実にはある場面では感情のみを強調し、またある場面ではその逆が行われるという不協和音を響かせている現状が散見される。これは、おそらく局所的な最適化の追求が進められているからだと思うが、おそらく多くの場面で問題とされる合成の誤謬はここでも見事に発揮され、結果として知の衰退を引き起こし始めているのではないかと懸念する。
 私達は何事を把握し、吟味し、分析し、受け止め、対処をする時においても、感情と知性のみならずバランス感覚を見失ってしまわないことは重要である。行きすぎは情動の持つ本質的なパワーの結果ではあるが、同時に私達を最も後悔させる潜在性を持つ存在でもある。

 そして、別の面で言えば知性のみが勝ちすぎることも同時に本質から外れていく。知的なあるいは論理的な考察は多くの場合において感情論よりも優れているかもしれない。ただ、私達は厳格な法律が常に正しい訳ではない事を知っているように、知性のみを追求することも人間社会を考える時に完全ではないことを知っておく必要がある。もちろん感情の暴走がその代替にならないことは言うまでもないが、知の衰退は意外と論理を追求しすぎるところから広がっていくのかも知れない。