Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

質と量

質量とは、重量とは異なり引力の影響を除外した概念である。
1(kg)の物体に1(m/sec)の速度を与えるに必要な力が1(N)である。。。などとそんなことをここで言うつもりはない。

物事の質と量について考えてみたいと思った。
質は「quality」で量は「quantity」であるが、クオリティはよく使われるが、クオンティティーとはほとんど使われない言葉である。
例えば、若い頃の食事は質より量で、年を取れば量より質となる。
質が高いに越したことはないが、それが理由で量が満足されなければ意味がない。
しかし、生活していく上では質は一定レベルさえ保てれば我慢できなくはない。
そして、質に上限はないに等しいが、量には必ず限界がある。

実は、「量」という概念は非常に明快である。基本的に計量できるものだからである。
一方、「質」という概念は曖昧模糊としていてつかみ所がない。計量的に扱える内容ではない。
それ故、コストで語られたり、希少価値で語られたりすることが多い。
しかし、本来の質は満足度で表されるものなのだと私は思う。
満足させるための手間が多くかけられているものが、相対的には質の高いものと言えるだろう。
そこには価格も相対化のために含まれる。コストパフォーマンスという言葉がまさにそれに該当する。

通常、満足度は個々に異なるものである。個人の趣向に大きく左右されるためだ。
よって、質とは人によって判断がかなり大きくばらつくことになる。
それが社会全体として性格に計量することが困難であるが故に、多くの場合には中途半端なスローガンで代替されてしまいがちだ。すなわち、質は雰囲気に流されやすくなる。流行などは、まさにその典型だと言えるだろう。

量については、先ほども書いたように数としての認識は非常にわかりやすいように見える。
ただ、その量が妥当かどうかと言う判断になった途端に、質の場合と同じように人によって異なることになってしまう。ただし、そのばらつきについては質の場合ほど大きくない。
量には限界があるという制限値についても、あくまで人間が常識や自分なりのフィルターにかけて評価した結果であり、数字としての量は明快ではあってもそれをどのように捉えるかによって評価は全く異なってくる。
「降水確率60%」を高いと見るか低いと見るか。数字は明確でも、判断は分かれるものである。

結局のところ、「質」も「量」も最終的にはその情報を受け取る人の価値判断に左右される。その情報の受け止め方は人によって異なる訳だ。あとは妥当と認識するかどうかの判断が異なるだけである。
ただ、量の方が集団的な合意形成が容易であるのは明かであろう。量に対して人が有するレンジは比較的狭い。
それ故、社会的な合意形成として利用する場合には質よりも量(この場合は数値的に表せるデータ)を使用した方が有効である。受け止め方が同じ環境で生活しているものにとっては近いものとなるためである。

なお、数値データのこうした認識性を逆手に取る方法も良く用いられている。
数値の一部を切り取って誇張したり、比較すべきデータを無視したり、、、など、様々な方法がある。
量(=数値データ)が集団として同じような認識をしやすいことを利用して、誘導しようという考え方である。
質に訴える主張は、似た趣向を持つ者にしか響かない。

だから何かを主張したいと考えれば、質(=イメージ)を持って同志を集め、量(=数値)をもってアピールする方法が一般的に取られる。それは組織作りの悪い面としてではなく良い面としても考えておくべき基本的な事項ではないかと思う。
社会的事象には常に質と量が介在する。普段の生活を送る上で、質のイメージに惑わされず量のトリックに騙されない。できればそうしたいものである。

「イメージとして、質は高級、量は低級と認識しがちだが、尺度としては常に言えることではない。」