Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

イメージコントロール

 年度末のドタバタの中、書くための気力が少し低下しており更新が進まなかったこと、深くお詫び申し上げます。まだ状況が完全回復とはいきませんが、少しずつ元の調子に戻したいと考えております。

 さて、いきなりだが人は現実をイメージで認識し判断する(https://books.google.co.jp/books?id=416Bmg0B8I8C&pg=PT6&lpg=PT6&dq=%E4%BA%BA%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%80%80%E5%88%A4%E6%96%AD&source=bl&ots=VTjvn8tjVs&sig=CgrfHdOPSSiLRbw1lHwIYFbCVEE&hl=ja&sa=X&ei=7ooCVbyBEKbVmgWVy4DgCA&ved=0CDwQ6AEwBg#v=onepage&q=%E4%BA%BA%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%80%80%E5%88%A4%E6%96%AD&f=false)。これが脳のどのような仕組みに依っているのかは専門家の説明を聞かなければならないが、人間は単純な計測機器とは異なり不完全な情報群から一定の判断を経てイメージを構築する。
 勝手な想像ではあるが、現実の事実や事象をそのままを脳に入れることはできないのではないかと私は思っている。連続体としての情報ではなく、それを適宜切り取った断片がここで言うイメージである。

 考えても見ればすぐわかるが、人は育ちや環境の異なる他人の全てを知ることなどできやしない。また、自分の能力と言うリソースを一か所に集中できるのは研究者や求道者などごく一部の特殊な人に限られる。
 だからという訳ではないが、人はほとんどの場合において自分がわかりやすい・理解しやすい形で簡略化した上で物事や人をイメージとして記憶し判断する。少し面倒くさい言い回しをするならば、連続しながら絡み合う膨大で複雑な事象を、その断片を最も典型的と感じる部位において切断して認識する。別に適当な断面を切り取っているわけでは無い。「自分にとって」最もわかりやすい形で理解するのである。
 ここで、「ほとんどの場合」と表現したのは私にその確信がないからであるが、気持ち的にはすべての場合においてと言いたいと思ってすらいる。

 イメージにより認識することより、情報量が少ない場合には信じられないような誤ったイメージを抱くこともあるし、それが「第一印象」などと呼ばれるものであったりもする。付き合いが深くなれば、こうした印象が何層にも重なりあい深みが出てくるのは間違いないが、だからと言って私たちがイメージ以外の何かで理解しているのかと言われるとなかなか難しい。
 個人的な感想で恐縮ではあるが、愛情すらも「愛情」というイメージを介して私たちは理解していると思っている。こんなことを言えば、イメージを超える心のつながりがあるだろうと言われるのは予想できるが、それすらもイメージの一部ではないかと私は思っている。
 例えばとても仲の良かった二人が突如愛情が冷めてしまうという話も良く聞くが、これはそのイメージを維持することができなくなったと考えるのが私としては理解しやすい。確かに付き合いが深まれば多面的なイメージを構築することができる。それは人のつながりを強固にするであろう。ただ、私たちの理解は断片としてのイメージの積み重ねにより作られているのではないかと思うのだ。

 例えば、私たちの周りの事象において全てを知っていると言えることなどどれほどあろうか。もし仮に完璧な情報が揃っていたとしても、私たちはそれを全て連続的に理解できているとは思えない。私個人の感想で申し訳ないが、認識は断片の積み重ねではないかと常々思っている。と言うのも、その同じ事象を別の人がお互いに完全理解したと考えて、二人の意見や理解は一致しない可能性が高い。おそらく、完全一致は稀な現象であろう。
 人は全ての事象をイメージを介して判断を下すため、その理解の仕方は人によって異なる。社会的要請から一致したと擬制している例は数多くあろうが(会議の決定事項など)、それは全ての認識を網羅するものではない。

 あくまで仮定に仮定を重ねている話の展開ではあるが、人は何故イメージにより他人や物事を理解するのであろうか。ここで少しイメージについて具体論を進めよう。私が言っているイメージは、何も映像的なイメージに限らない。「好き」、「嫌い」というのも私はイメージではないかと思うのだが、音や匂いもイメージを想起させる。
 典型的な例示を出すならば、受験勉強時に用いられる「イメージ記憶法(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%98%E6%86%B6%E8%A1%93)」などを考えると、とんでもない関係性ですらイメージとして成り立つことはなんとなくわからないだろうか。

 さて、現実の社会で経験する出来事は学校の試験とは違い明確な正解があることはない。また、判断するためのすべての条件が与えられていることもない。ある程度想像することが可能な条件を基に、私たちは抱くべき認識や取るべき行動を決定する。だからこそイメージにより物事を認識することに私達は抵抗がない。
 イメージを用いることで不足している要素を補完することもできる。また、イメージとは非常に多数ある情報にラベルを付することでもある。中にはラベルとは必ずしもそぐわない情報も含まれることになるが、情報群を受け渡しする時にはこうしたグルーピングやラべリングが有効である。
 一方で余分だと思う情報をカットするフィルターの役割も果たす。要するに、少ない情報量で本来莫大な情報を含む事象を理解し、あるいは伝達するための効果的な方法である。

 だから、私たちは自分の全てや自分を取り巻くすべてを理解してもらおうといくら努力しても、それは報われない土台無理な話である。あえて聞けば「そんなことはわかっている」と答えられるかもしれないが、それは冷静であるからこその話だし、また自分を客観視できるからこそ言える。
 抱くイメージは人によって異なるから、自分自身の判断は必ずしも多くの人の支持を得るわけでは無い。ただ、はっきり言えることは人はイメージでしか理解しない。とは言え、一枚の薄っぺらいイメージを見て判断する人もいるだろうが、何枚ものイメージを集めて総合的に判断する人もいる。
 そういう意味で言えば、イメージで理解していると考えようがイメージ以外の何かを加味していると考えようが、結果にはあまり差がないかもしれない。
 それでも、自分自身が良いイメージ作りをしていこうと考えるならば、人がイメージによって理解や評価を行うことをしっかりと認識しておくことは重要であろう。すなわち、イメージ作りの努力は自らの立場を有利にするためには不可欠ということである。ただ、人によっては無意識のうちに自らに有利なイメージを演出する人がいる。
 イメージ作りに反発する人は、自分の思い通りにならないことへのいらだちが全面に出てしまっているのかもしれない。

 イメージは、ある時には「信用」という形で語られることもある。信用は一瞬で崩れ去ることもあるが、積み上げるのは容易ではない。すなわち、イメージは強烈な情報により上書きされる。重層的なイメージを持ってもらっている相手は、その一部が毀損されても他のイメージにより全体的な修復がなされることもあるが、関係性の薄い人であれば一つのイメージが失われればほぼ良い関係は構築出来ない。老舗などは、重層的なイメージを与えているからこそ容易に信用は揺らがない。
 しかし、悪化したイメージも時に別の良いイメージにより修復されることもある。これは「信用」とは異なる認識ではあると思うが、人が抱いてしまったイメージを変えるのに最も良いのはより強いイメージで情報を上書きすることであろう。

 個人レベルであっても、社会レベルであっても、そして国家レベルであっても、人々は自らの思考というリソースが有限であることを知っており、それゆえになるべき簡略な情報で事象を把握しようとする。暴力的な争いや戦争がトータルとして不利になる時代において、最も需要な闘争の場はこのイメージ戦略なのかもしれない。
 イメージは断片であるからこそ比較されやすいのである。