Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

パトロン行政の是非

パトロンとは、保護者や後援者を意味する。芸術や芸能あるいはスポーツの世界に多く、古くから芸術家はその援助を得て様々な名作を生み出してきた。すなわち、極論を言えば芸術とは金持ちの道楽の遺産でもある。
wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3

近代では、そのパトロンが一部の金持ちから行政に大きくシフトしていた面がある。
それは特定の巨大な金持ちが少なくなったこと、逆に社会の安定から芸術を目指す人口が増加したこともあるだろう。
いつしか、芸術とは行政というパトロンの下で生き延びる存在となっていたのである。
最初は、既存の芸術作品や伝統芸能が失われることを避けるためにスタートした行政による芸術支援は、その目的を徐々に広げていき既存の芸術の活性化を企画したり、街興しの一環として利用されたりするようになった。

最小限であったはずの資金援助は、徐々にその枠組みを広げて生き延びるための補助金として芸術を縛るが如くにまで広がっていたとい面も否めない。
もちろん、行政の援助を受けずに生き延びる芸術がないわけではない。
しかし、伝統芸能は天然記念物を保護するような感じで、前衛芸術は若手芸術家達の生き延びる道を与える形で、その保護が行政の手に大きく委ねられるようになった。それが全て悪いとは思わないのだが、援助が可能なのはあくまで行政にその役割が果たせた時期に限られると言うことでもある。

日本におけるパトロンが、過去と比べて減っているかどうかを示す具体的な資料は残念ながら持ち合わせていない。
ただ、その多くが行政によって肩代わりされているのではないかという疑念は、常々抱いていた。
芸術は、それを評価するものがあって初めて生き延びられるものである。
それが市中で広がるものもあれば、高い権威付けにより得られるものも存在する。行政が芸術賞などを企画することで結果的には権威付けにおいても行政の介入が行われる。行政は芸術の裾野を広げる役割も果たし、芸術の権威を高める作業も担ってきたというわけである。

さて、行政機関がそのようなパトロンとして振る舞うことができる時代においては、それも筆頭の文化のありようであったと思う。そのものを安易に否定して良いとは思わない。ただ、現状の日本のように地方行政において余裕が無くなりつつあるときだからこそ、パトロンとしての行政が本当に必要な存在なのかが問われることとなる。

大阪では新たに橋下市長が生まれ、芸術支出に対する切り込みも行われそうな状況になっている。もちろん、芸術支出だけには留まらず公務員給与などの見直しも行われるであろう。
ただ、大金持ちによる私的な支出でないとすれば、芸術に対する支出に関する見直しもある意味当然だと思う。
芸術その存在を否定するつもりはないが、行政をパトロンとしてきたコレまでの体制を見直す時期に来たという話なのだと思うのだ。あるいは、無策に広がりすぎた芸術の裾野を見直す時期とも言えるだろう。

芸術は人の心を豊かにするものである。しかし、その援助は無理をして行うものではない。
逆に言えば援助を受けるものは、支援者を探す努力は必須なのだとも思う。
それが多くの国民による支持なのか、あるいは特定の営利団体による支援なのか、それとも別の理解ある支援者によるものなのか。徐々にではあるが、行政がその役割から降りる時期が近い付いているのではないだろうか。

「芸術は生活に張りを与えるかもしれないが、生活そのものではない。」