Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

津田大介氏の行く末

 あいちトリエンナーレが終了した(津田大介氏「プラスで終われた」 トリエンナーレ閉幕 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル)。だが、そこで明らかにされた問題は今後大きく尾を引くだろう。問題を単純化してみれば、実は天皇陛下の写真侮辱問題や特攻者への敬意なき対応などがクローズアップされるが、それよりも何よりも税金に巣くう仲間内での仕事融通問題が垣間見えたことであろうか。こうした事例は何も芸術分野に留まらない。NPO関係などでも、自治体予算を如何に仲間内に配分するかで知恵を巡らせている例は数多く存在する。公共という隠れ蓑を使い、税金に集る人たちは少なからず存在しているということ。知っている人には既知の情報ではあるが、それが多くの国民の目に触れたことがポイントだろう。

 もちろん、価値ある芸術を保護していく役割を公共が担っている側面はある。だが、それは確定した価値のある芸術を保護することであって、自分勝手な表現を保護することではない。だが、役所側も自分たちの裁量を広げたいという存在的な欲望を常に持っており、仕事を得る(あるいは名声を得て仕事につなげる)という作家側の考えと見事に結びついた状況である。さらに言えば作家側にも仲間が存在し、仲間が仲間を呼び合う仕組みが出来上がっている。この仕組みは省力化に寄与するが、既得権益化への呼び水にもなる。

 

 さらに、確定した価値のみに着目すれば、既存の大家のみが機会を得て新たな芸術表現が育たないという意見も確かにあろう。だが、それを公金によりどこまで援助(フォロー)するのかについては限界があるはずである。今回の問題は、そこに取り入ろうとする考え方と、それを制止しようとする考え方のせめぎ合いであり、ちょうどよい落としどころを探ることが何より重要である。

 一つには、作家を選ぶ選定委員(あるいは実行委員)の知己は参加できないというのがあろう。利益相反に値するかどうかの判断は難しく、線引きが困難なのはわかるが、明らかにインナーサークル的なそれは許されないということではないか。

 

 今回の問題は、昭和天皇の写真に対する明らかなヘイトを芸術と言い張っているポイント(他にもいろいろ)がクローズアップされているが、それよりも芸術利権に巣くわんとする特定勢力の素材を赤裸々にした。社会問題になったきっかけはヘイトと芸術の線引きであるが、実態は芸術利権のどす黒さにある。

 そして、これまでうまく芸術というカテゴリで誤魔化せてきたものを、津田大介氏が見事に炎上することで可視化させた。鷲田めるろ(鷲田めるろ - Wikipedia)氏等が文化庁の委員を辞任(文化庁事業の委員が辞任 トリエンナーレ補助金不交付反発|全国のニュース|佐賀新聞LiVE)したようだが、私は文化庁の判断自体は間違っていないと考える。これは芸術文化への介入ではなく、芸術文化を利用した不当な活動に対する否定であると思う。

 

 正直なところ、芸術は余力のある時代や余力のある所に生まれ得る。その余力は江戸時代のそれのように庶民的なものから、ヨーロッパの貴族社会で広がったものまで様々だ。民間においてそれが広がることに反対するつもりはないが、政府がどこまでそれを支援するかは常に考えられなければならない。伝統的な芸術を保護し、後世に残していくことには賛同する人は少なくないだろうが、前衛的な芸術については民間において生き残ったモノのみを支援するだけで十分ではないか。こういった感覚に賛同する人は少なくないと思うのだ。

 自分の感覚や感性、あるいは社会的アピールの表現として前衛的な芸術を作る人は少なくない。だが、現代芸術の賞味期限は決して長くない。マルセル・デュシャンの「泉」(泉 (デュシャン) - Wikipedia)は有名であるが、この作品はエポックとしての意味は持つが美術品そのものとしての価値には疑問が残る。

 

 創作が社会において重要であることは私も認める。だが、特に思想的なそれを積極的に公的資金において援助し、あるいはお墨付きを与えることには疑問を持っている。特に美術界においてほとんど実績を持っていない津田大介氏を美術監督に選んだこと。それそのものが美術界に対するアンチテーゼですらあると思う。

 だが、今回の出来事はどのような締めくくりをしたとしても、美術界の税金にすり寄る状況を国民の目に焼き付けた。システム的に、こうした支出に対する規制は間違いなく厳しくなるであろう。そして、時間をかけて津田大介氏はその戦犯として記憶されていく。だが、彼のフィールドは本来そこではない。いつでも離脱できる。

 

 兎にも角にも、美術界における公的資金確保に大きな傷跡を残した事件として、今後は語られるのではないだろうか。