Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

韓国はまずイグノーベル賞を目指すべき

ノーベル賞狂想曲の時期も過ぎたが、毎年秋口になると日本のみならず韓国のメディアはノーベル賞の報道に明け暮れる。ノーベル賞の権威は確かに高いと思うが、それは結果として与えられるものであり目標とはしても目的とすべきものでは無いはずである。
ところで、ノーベル賞とは権威が全く異なるがイグノーベル賞http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E)という若干パロディ色のあるサイエンス・ユーモア雑誌『風変わりな研究の年報』により認定される賞である。その受賞条件は「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」であり、ノーベル賞とは毛色もレベルも違うものではあるが、逆に言えばそのような研究が認められるという研究分野の幅の広さと層の厚みがなければありえないものである。
ご多分に漏れず、日本は受賞者をほぼ毎年輩出している常連だ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E8%B3%9E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%8F%97%E8%B3%9E%E8%80%85%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7)。
思わず笑ってしまいそうな研究もあるが、真面目に行われた研究であることに違いはない。

さて、韓国からもこの賞の受賞者を三人輩出しているが、そのことを韓国のメディアが報じることはほとんど無いだろう。と言うのも、その三人は権赫豪(1999環境賞)、文鮮明(2000経済学賞)、李長林(2011数学賞)であるが、最初のその人は香りの出るスーツを作ったことで表彰されたもの、二人目はよく知られた統一協会の教祖であり集団結婚が経済に与えるインパクトを、三人目は世界の終焉を予言したことという、いずれもあまり喜べる内容ではないことがある。
日本の受賞者も笑える研究がいくつかあるが、どちらかと言えば真摯な研究がユーモアを持って迎え入れられたものがほとんどだ。韓国のケースとは扱いの差が酷くてちょっと可哀想な気さえする。
おそらく、韓国ではイグノーベル賞のことなどほどんど報道されることもないのではないかと思ってしまうが、私は韓国こそこのイグノーベル賞を受けることをもっと積極的かつ肯定的に捉えるべきではないかと思うのだ。

本来、科学的な研究とは好奇心と探求心を基礎として、そこに至る執念と多大な運が加わって始めて大きな成果が生まれる。名誉欲はあってもなかっても構わないが、それが虚栄心になってしまえばむしろ基本となるべき探求心が疎かになりかねない。それでは本末転倒だ。
このイグノーベル賞とは、その好奇心や探求心の結晶としての表彰だと私は思う。もちろんノーベル賞とは価値も評価も異なるものではあるが、そうした研究の積み重ねとして学問の幅広い裾野が構成され、一人の天才に依らなくても安定した多くの実績を上げることができるのだ。
スポーツの世界でもそうだが、若いうちから徹底的なトレーニングで一つのものに打ち込ませ成果を上げる方法論については韓国は日本を勝るであろう。ただ、それは一人の天才を永遠に追い求める手法でもある。天才が現れなければ無意味な投資に終わるのだ。
持続的な成果を期待するならば、それでは駄目なのである。経済も一部の財閥に集中する形は確かに嵌れば凄い。ただし、それも一人の天才的経営者に寄りかからなければならない仕組みであれば、永続性は得られない。

最終的な成果を急ぎすぎるよりも、まずはイグノーベル賞で面白いがきらりと光る成果を積み上げていくような意識を持てば、科学系の分野で安定的にノーベル賞受賞者を輩出できるような土台ができると思う。
ノーベル賞狂想曲に踊るのも良いし日本の研究体制を羨むのも良いが、それ以上に考え方を変えることが必要ではないだろうか。そして、日本人としてはイグノーベル賞を数多く輩出しているという事実を喜びたい。