Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

格差は気にした方が負け

格差はあらゆるところに存在する。
同じレベルなどと言うことは、非常に少なく分野も限定される。
子供の頃から、あらゆる場面で人は格差に直面する。
それを悪平等で是正しようとするおかしな教育も存在するようだが、教育課程でのみ有効なそれは社会的には全く意味がない。自己満足とクレーム対応を正当化しているに過ぎないのであろう。

格差があるのは当然なのだが、ではその格差が生活においてどれだけ問題になるか?
こう考えてみると、予想以上に格差は影響力が低いとも言える。
もちろん、仕事においては出来る出来ないの差があることは間違いないが、それは能力の差。
その能力においても、記憶力から行動力まで様々な要素に分けられる。
だとすれば、一部の能力での格差は別の何かでカバーできる。

その何かが、何なのかは個人の能力次第なのでなんとも言えないが、自分に有利な分野を頑張ればいい。
仕事の場合には容易に埋めがたい差であっても、生活の様々な場面ではそれほど大きな差にはなりがたい。ただ、人々はその差をステイタスとして利用するため、必要のない格差は持ち出される。

でも、その格差は必要なないところで使われている。
だから、それを気にしても始まらない。
格差を演出したいグループにいじめられる状況は避けたいと思うが、その場に関係ない格差を気にして萎縮する方がもったいない。
他方、格差をステイタスの補強として利用することも、馬鹿げている。
要するに、必要のない自慢である。

その場に必要のない自慢は、それをサポートする人がいるから意味がある。
それがいなければ、なんの価値もない。
もちろん、格差にうちひしがれる当人が実質的にサポートしてしまっているという悲劇はあるのだが。

格差は、それが生かされる場では素直に従えばよい。任せればよい。
そして、自分が有利な場面で自分のそれを発揮すればよい。

それが生かされない場面での格差は、実質的にそこでは飾り以上の意味はない。
その飾りを自慢するのは個人の自由ではあるが、それに大した意味はない。
だとすれば、その場に必要のない格差など気にしても始まらないのである。

だから言える。
格差は気にした方が負けなのだ。

「格差はそれを認める者がいるから存在する。」