Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

菅総理の退陣に選挙制度を思う

最初に立場を明らかにしておいた方が良いと思うので、書いておきたい。私は菅総理は鳩山前総理以下だったと思っている。
なぜ、このような総理が誕生してしまったのか?
その点については、今後の日本の政治を考える上で総括されなければならないであろう。

元々、菅総理民主党の中でも非常に小さな派閥のトップである。マスコミは、なぜか民主党内の集まりを派閥とは呼ばずにグループなどと言っているが、最初から派閥でしかないので早急に派閥と呼ぶようにした方が良い。「民主党のグループは綺麗なグループ」なんてどこかで聞いたことがあるようなフレーズが広まってもおかしくない。

さて、弱小派閥の領袖が総理になった例は自民党時代にも無かったわけではない。もちろん、大派閥の傀儡的な存在としてではあったり、あるいは大派閥同士の力が均衡する上での担ぎ上げであったりもしたであろうが、仮にそうではあっても一度つけた総理大臣を容易に替えるなどと言うことはできるものではなかった。
それは、自らが総理大臣の格を辱める行為であるからだ。しかし、同時に大派閥からの圧力は常にあったであろう。

ところが、菅総理民主党内の最大派閥である小沢派を実質的に冷遇した。それにもかかわらず、大派閥からの圧力に一定以上の期間を耐え続けた。
それは、なぜ可能であったのだろうか?

もちろん菅総理独特のパーソナリティがあったのは当然である。
市民活動というか、一種の反体制活動的なそれで培ってきた反骨心は、他の多くの政治家が持っている考え方とはおそらく違っていたのであろう。
しかし、仮にそれがあっても民主党内の菅総理に対する圧力は大きくはなかったように感じている。まるで、腫れ物にでも触るような感じ。ただ、その言葉は重要視しない。ここ数ヶ月は好きなことを言わせておけばいい的な雰囲気がかなり匂ってきていたものだ。

その一つの原因として、新聞なども常に書いてきたが解散総選挙に打って出るという憶測があったと思っている。
小選挙区制の現状は、国民の信任を大きく失った政党に所属していれば個人の活動と全く関係なく落選の危険性が高まるのだ。
それは、当然と言えば当然。小選挙区制というのはそういうものである。ただ、郵政選挙しかりで現状振れ幅が大きすぎる。
解散カードは、対野党ではなく対与党内への脅しとして用いられたのだ。落選の危機を感じ取った議員たちは、その脅しを脅威的に感じていいたのは間違いないであろう。

ところで、今問題とされる衆参ねじれ状態は結局のところ小選挙区制による弊害を埋める国民の意思なのだと感じている。
暴走を止める方法ではあるが、同時に政治的停滞を招くものでもある。

小選挙区制導入時の目的は、二大政党制の政治論争が巻き起こることであった。実際、政権交代は起こった。だから、そういう意味では目的は達せられたとも思う。
ただ、それ以上に弊害が大きすぎたのではないだろうか?

小選挙区制は、第3党、第4党などの小政党を衰弱させもした。そこには古くさくなりすぎた政治理念なども絡んでいるかもしれないが、結局それを排除するシステムなのだからある意味当然でもあった。
比例代表制は、それを補完する制度ではあるが、そこに個人は存在しない。党内論理で定めた候補から順に当選していくのだから。

総括すれば、小選挙区制は選挙を政治家個人の資質から政党という大きな存在に集約させたと言える。政党が、同じ考えを抱く政治家達による集団であれば問題は生じなかったであろう。しかし、現実は理想とは異なる。

次の選挙では再び大きな振幅が来るかもしれない。
さて、日本が世界的な危機の時代に国内の政治的な振幅に振り回されているのが果たして良いことなのだろうか?

さて、仮に中選挙区制に戻したときに、民主党が求心力を保ち続けられるかどうかはわからない。小政党として飛び出しても個人的な知名度が高ければ当選する可能性は高まる。であれば、民主党という看板にしがみつく必要はなくなるかもしれない。

しかし、仮にそれでも民主党が生き残れると仮定すれば、選挙制度中選挙区制に戻した方が良いのではないだろうか?
死票の数は確実に減じられ、少数意見もすくい上げられる。
そして、解散カードが今よりは総理延命のための切り札としては効果を失う。

折りしも、一票の格差に対する違憲判決が最高裁判所から出されている。これを機会に中選挙区制へ戻すという議論があっても良いように感じている。

「なぜ、人口変動に自動的に追随する形の選挙区制度を誰も出さないのか?それは、都合の悪いものが多いからであろう。」