Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

死刑問題

死刑は人権と大きく関わっている。
この人権は、あくまで生きている人の人権が優先される。逆に言えば、死んだ人には名誉の回復はあっても人権はない。

私は人権の歴史をしっかりと研究したこともないので、かなり自分勝手な解釈となってしまうのだが、少し考えてみたい。

まず、現代社会においては、人は人を殺す権利を有していない。
これは、社会秩序を維持する上で欠くことのできない制限である。
ちまたでは、子供が「どうして人を殺してはいけないのか?」と訪ね、その答えに窮する大人がいるような話も聞くが、それ自体は答えに窮するようなものではない。

人を殺す権利を有すると言うことは、自分自身を殺す権利も別の誰かが有している。
そして、社会の体制が現状の安定を望むとすれば、自ら人を殺すことを主張する人間はまず最初に粛正されるであろう。人を殺すと言うことは、自らも殺され得ると言うことと同義なのである。
もちろん、北斗の拳の登場人物のような信じられない力を誇るものが自由気ままに振る舞えるかもしれない。しかし、仮にそんな人物であっても常にいつ殺されるかわからないという不安と表裏一体の世界にいる。世界中の王族などかつては裏切りと暗殺の世界であったのは歴史に詳しい。
そんな社会の回帰を本心から望むのであれば、本当のことを言えば現代社会では受け入れるべきではない。

人は人を殺す権利を有していないのだから、死刑などと言う処罰はあり得ないという考え方もある。現代の日本では、複数の人を殺さなければ死刑に該当することは基本的にない。さらに、その時の状況も勘案される。特に、身勝手で悪質な場合に限られているのが現状である。

死刑に該当する人は、本来私たちが守らなければならない最低限の「殺すな」という規範を破った人である。他の犯罪も容易に認められるべきものではないが、最も社会に混乱を引き起こしかねない「殺人」という行為をしたものは、まず一度は社会の規範の外に身を置いたのだと思う。
しかし、それでも同情的なケースがないわけではないだろう。それも許されるべき話ではないのだが、復讐に該当するケースである(これはいじめへの犯行もケースもあるであろう)。

一般に、偶発的な事件による殺人の場合、死刑が科せられることは非常に少ないと私の知る限りはそう認識している。
だから、計画的な復讐の場合にどう扱うかはなかなか難しい。

逆に言えば、非常に身勝手な理由で殺人を(しかも複数の)行うような人は、基本的に人を殺すという行為に対する精神的障壁が一般の人と比べて低いのではないかと思う。
不思議なことに、日本では殺人事件の発生確率は世界的に見ればかなり低い。さらに、その割合は戦後低くなる一方である。
日本の漫画やアニメなどは、不道徳的で殺人場面がひっきりなしに出てくると非難されるケースが少なくないにもかかわらずである。

これは、一つにはこうした漫画やアニメが代償的に発散させているからであるという意見も散見する。しかし、私自身はそれよりも日本の公的教育制度の高さがあるのではないかと思う。
教育制度の高さは、同時に貧富の格差の小ささによって維持されている。確かにジニ係数は上昇しており予断を許せるわけではないが、その点は重視されるべきではないだろうか?

人間の人格は、高校生あたりでかなりの部分が確立する。逆に言えば、それより若い年齢では人格が今後も変化する可能性は高いのだが、一定以上の年齢になればそれはかなり難しくなってしまう(おそらく脳の発達にも関係するのだろう)。

さて、死刑制度の話に戻る。まずは統計から、
現代日本では、死刑判決が下される数はかなり少ない。戦後すぐは多かったものの、1970年代頃からは年間ほぼ一桁である。ただ、ここ7年ほどはその数が増加しているのは気になるところである。これが社会の不安定化の発端にならないことを祈りたい。
死刑執行・判決推移
http://www.geocities.jp/hyouhakudanna/number.html

世界では死刑のない国もあるのだが、例としてアメリカのケースを挙げてみる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Executions_in_the_United_States_from_1608.png
1975-2000年には60〜100人の死刑が執行されている。死刑執行を行わない州(約1/3)もあるため、日本の数と直接比較できるわけではないものの、人口比で見れば日本よりはかなり多いようにも感じられる。・・・それでも死刑には日本より否定的な国だと私は感じている。
EUでは現在、非人道的行為として死刑は行われていない。

死刑を執行しなくても、終身刑での隔離を行えば社会的にはリスク回避できるという考えがあるが、日本の場合には無期懲役はあっても終身刑はない。無期懲役でもかつては10年以上問題なく刑期をつとめた場合には仮釈放が行われることもあった。現状では死刑廃止運動の広がりと関係してだろうか、仮出所までの期間は20年以上と延びている。

さて、現状で死刑判決を受けるようなものは、容易には社会復帰が認められていないことは上記の内容からわかる。現状でも無期懲役のうち30年以上仮釈放が認められないものも80名以上いるという状況であり、復帰に対する社会的コンセンサスが得られないと言うことがあるのだろう。

一方で、死刑存続の声の主体となっている意見は、被害者の受けた損害に対して受刑と言うだけでは不足だということがあると考えられる。
本来、軽い犯罪における受刑というのは社会復帰をするための期間と見なすこともできるものである。ただ、犯罪の再犯率(一般刑法罪)が50%近い現状では、現状の刑務所の役割が社会復帰を促すという面よりも、一時的に社会から隔離するという側面が高い気もする。
・・平成15年時点での殺人の再犯率は41.1%(警察庁統計)

これを見る限り罪を償うという役割を、刑務所が果たせていないのかもしれない。
仮に罪を償うという役割が十分果たせていないのであれば、被害者側の言い分も意味を持つものであろう。

私はどちらかと言えば死刑を肯定しているのだが、これはややドライな考え方による。
別に被害者側の心情に深く共感したというワケではない(もちろん、心情は察するが)。
現在の死刑制度は、個人が人を殺すことを許容していない社会において、それになじまないものを制度的に排除するシステムである。そこには、犯罪者の人権を守る余地はないと思っている。
そして、死刑判決というものは犯罪者の人権を守る必要がないと判断したということではないかと思っている。
そう判断された犯罪者の人権を再び謳うという行為は、実質的に社会から隔離してるという現状を無視した人権原理主義的な判断ではないかと思っているわけだ。

人は人を殺せない。だから制度的に殺す。法務大臣はその制度の一部であり、人としての判断を行う必要がない存在である。私はこう思っている。

さて、それでも死刑廃止論は弱まることはない。
同時に考えなければならないのは、社会的な隔離(刑務所)のコスト問題である。
実を言えば、刑務所は基本的にパンク寸前の状況にある。
近年ようやく98%と100%を切ったと記憶しているが、それでもほぼ満杯の状況。これは、非常に問題がある事態である。
受刑者の生活は最低ではあるがそれでも税金で保証されている。
このコストを社会が受け持つ必要があるのか?という問題もあるだろう。

私自身は繰り返しになるが死刑は存続させるべきだと考えるが、それに代わる方法としては終身刑ではなく流刑を考慮してもいいかもしれない。
一定の無人島に無期・あるいは死刑の収容者を投じる方法である。
全く人権に配慮していないと言われそうだが、社会的なコストはこれによりある程度減少する。
さらに言えば、凶悪犯罪の抑止効果は高まるように思う。

それこそ治外法権の場所となるだろうが、そこからの脱出のみを明確に監視すれば、それ以上のコストは必要ない。江戸時代と同じである。
そして彼らは生きていくだけで精一杯になる。

少し無理があるかもしれないが、死刑問題について考えてみた。

「社会の理の外たろうとする者には、それを与えるのも一つの手である。」