Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

蝉と毛虫

少年時代を考えた時、おそらく多くの人と異なるだろうが桜の思い出は入学卒業でも花見でもない。私にとって桜の木の印象は夏真っ盛りであった。
毎年盛夏になれば私は虫取り網と虫かごを身につけて、桜の多い山の上にある公園を駆け回っていたのである。そう、、蝉採りである。
桜の木は蜜が多いのか、あるいは樹液が美味しいのか、他の木よりも随分多くの蝉が集まってきていた。私の地元は都会であったこともあり「クマゼミ」が非常に多く、桜の木に特に多くの蝉が集まっていた。酷い時には一本の木に数百匹はいるであろうほど群れていたこともある。その姿は子供ながらにもグロテスクに見え、絶好の猟場でありながらも目的を断念しようと感じさせたものだ。

この桜の力は蝉のみならず多くの毛虫を集めることでも発揮されていた。蝉がまだ出てくる前の時期に毛虫退治に多くの薬剤が桜の木にまかれていたような記憶も残っている。今となれば当時の農薬が桜の木にどの程度悪い影響を与えていたのかはわからないが、あまり良いことではなかったように感じている。
桜の木に付く毛虫にはいくつかの種類があるようだが、主にウメケムシやチャドクガの幼虫などが多いと言われており、それ以外にも数種類の毛虫が付くことが知られている。時期も4月〜8月頃と毛虫の種類が変わりながら比較的長く続く。
ただし、桜の木に付く毛虫は無害なものも多く農薬散布などを行わないというケースも多いと聞く。桜に対する悪影響だけでなく人間に対する悪影響を考えてのことであるらしい。

だから、私にとっての桜の印象は二つの色で記憶されているのだ。淡い桜色である朧気な存在と、強い緑に覆われる熱くて甘そうなそれである。淡いそれは自ら興味を持ったものではなく、あくまで儀式の一環として与えられた教材であり押しつけられたそれである。子供の頃は花見などに行くこともほとんど無く、そもそも花見を風流に楽しめるだけの器量もなかった。
儚さは、どちらかと言えば桜の花よりもウスバカゲロウの繊細さや平家蛍の弱々しさによって感じ取った。なぜなら桜の花は桜という長い命の一面でしか無く、その一瞬は毎年現れるのである。
いや、今考えるとその両者に大きな違いがある訳ではないし、むしろ桜の色の機微を楽しみたいと感じるのだが、それでも過去を遡って考えてみれば私にとって桜の花は自主的に重きを置いたものではなかった。
それは、皆が良いと言うから良いものだと感じなければならないものだったのである。

繰り返すようで申し訳ないが、今ではやはり桜はよいと自分の思考で考えるし、むしろ蝉のグロテスクさの方が強烈に感じられるのだが、これは私の興味がそれなりに社会にフィットしたとも考えられるし、あるいは無意識のうちに社会に迎合したと言えなくもない。
正直言えば、今となってはそんなことはどうでも良いのだが、記憶の糸をたどってみた時に私にとっての桜はやはり花ではなく、蝉と毛虫なだと思い至っただけなのだ。

桜の季語は春かも知れないが、私の身体が覚えている桜は夏であった。

今週のお題「桜」