Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人はなぜ手段と目的を見誤るのか

人は普段の行動や決断において、目標やそこに到達するための手段について、明確に認識しているケースはあまり多くない。だから、能力向上セミナーなどではまず最初にこれらを意識させるところから始まる。

もちろん、明確な意識はないものの目標は存在するし、そのために取るべき手段についても常に考えている。わざわざ個別に意識しなくても普段の生活の中に定着している行動だからである。そして、個々の事情に対してそれぞれ目標と手段を明確に意識し検討することは、私達に心理的ストレスを与える。普段の生活では意識しなくても多少の誤差はあっても大きな問題は生じないのだから。

しかし、これが重大な問題となったとき突如としてそれを明確に意識しなければならなくなる。失敗が許されないからだ。ところが、普段から目的と手段を明確に認識していないものが、急にそれを行おうと思っても容易にできるはずもない。おぼろげにはそれは見えている。そんな感じであろう。

さて、目的に向かって明確な目標を立てなくてはならなくなったとしよう。目標を立てるのは難しくはない。しかし、明確な目標を立てるというのはそう簡単な話でもない。そのため、第一目標、第二目標と順次考える。要するに一つの明確な目標はあってもあまりに曖昧なため、最終目標に至る一つの道筋を決定できないのである。それ故、中間の目標までをどのような手段で達成するかを考える。だから、私達は目標の曖昧な部分を実のところ手段で補おうとしているのだと思う。
結果として、第一の目標達成のための手段が第二目標達成のための手段を拘束するのだ。最初に決めた手段が有効であれば、当然次も有効だという先入観が生じると共に、最初の手段を講じるために投入した労力を役立てようという心理も働く。場合によっては第三者に対して最初に取った手段を正当化するために、手段を変更できないという事態にさえ陥ってしまうのだ。
結果として、手段を容易に変更できなくなる。
それはすなわち、目的と手段の一体化である。

私達は、常に自己を否定するよりは肯定したい。
だから、自分の過去に縛られそれを正当化することに腐心する。
その結果、目的は変わらなくても効果によって手段を容易に変更できなくなってしまう。
それは人間的ではあるものの、正しいと言い切れるものではない。


わかりやすい例がある。
二大政党制は、手段であって目的ではない。
ところが、民主党のていらくを受けて今では識者が二大政党制を維持するためには民主党の成長を待つしかななどと発言している。これこそ、理想を追い求めながら手段と目的をはき違えている。
二大政党制は、国民が理想的だと考える政治体制への移行の象徴であって、目的そのものではない。
元来中選挙区制では硬直化していた各党の議席流動性を与えるために、小選挙区制を導入してそれを推し進めた。
しかし、その結果は小泉郵政選挙民主党の躍進に見られるような、極端に激しい選挙結果のブレである。
そのことが望ましいのかは大きく議論があるべきだと思うが、それをあまり見ることがない。

本来、手段は目的に至るためにいくつかあるものの中から、もっとも適切であろうと思うものを選択される存在である。だから、手間がかかってもその手段が現時点で正しいかどうかは検証されなければならない。仮に不適切なまま手段のみが残れば目的に達するのが遠のくばかりである。
もっとも、そのことを気にして検証ばかりを行うのも非効率である。
だからその中でバランスを取りながら考えなければいけない。
さて、こうした条件の中で二大政党制とはそこまで必死に守らなければならないものなのだろうか?

私達が手段を目標と一体化してしまう一番の理由は、自己保全だと思う。
加えて、なんとも検証する作業を省いているため、、、要するに考えることを省略しているのだ。
この手段は正しい「はず」であると、手段を神聖化していることである。
それは、心地よく楽なのだ。
自らは正当化され、悩み続けなくても良い。

日々の生活における小さな決断の場面では、おそらくそれでもいいであろう。
そんなレベルのことまで悩み続けるのでは、まともな生活など送れるはずもない。
しかし、重大な局面で日常の惰性による決断の回避を行えば、結果的には得になることは少ない。

その上で思うのは、国会議員レベルであっても、官僚レベルであっても、この手段と目的の一体化は頻繁に見受けられる。私達が注意しなければならないのは、その手段は全体目的に合致している、そしてどのレベルの目標までカバーしているのか。
その点についての議論があまりされていないのが、国政の場においては少々悲しい。
極論によるレッテル張りなどは、官僚や政治家の役目ではないはずなのだが。

「目標への最短経路は、自己の過去を否定できる能力があってこそ選択できる。」