Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

明確さ

「ぶれる」という言葉は、信念のなさを象徴する言葉となってしまった感じがあるが、だからと言ってぶれないというのが常によい訳ではない。同じ主張を続ける人の言葉の方が信用しやすいのは、その人自身を信用できるかどうかとは必ずしも限らず、その人の行動を予測しやすいという事実に対する安心であることも多い。
ぶれないと言うことに関して本当に必要なことを考えると、言動がぶれないことではなく目標や目的がぶれないことにあるべきである。目標や目的に至る過程や手段は千差万別であるのが普通であり、それを事前に切り落としてしまうと言うことは自らの手足を縛って行動するのに等しいことである。
こうした目標は、あまりに大きすぎれば現実の行動との乖離が激しすぎて意味を見失い、小さなものを多く挙げると結果と目標を混同しがちになる。必要なのは大きな目標と同時に中程度の目標を的確にたてていくことであろう。
誰もが理想的な遠い目標は口にできる。それは実現が遠いが故に語りやすい。それがないことは問題ではあるが、目的や目標が多い苦手実現不可能であればあるほどに曖昧さ・抽象性が大きくなる。それを回避すべく用いられ易いのが、手段や方向性の純化である。本来持つことができる様々な方法論や手段を自ら縛って、行動の一貫性を保とうという行為がそれに当たる。

それでも複雑な問題に対処しなければならない時、選択肢は多い方が良いのは普通に考えれば誰にもわかる。変化の激しいこの時代に、その変化を敏感に感じ取って微妙な舵取りをしようと思えば、当然過去と矛盾した行動を取ることもあり得るだろう。大きな目的を見失うことなく、しかし小さな問題への対処は臨機応変に行う。今求められているのはそれのはずである。
ところが、マスコミなどではその選択肢を狭めて純化路線を取る方が良いような風潮が広まっているように私には思える。確かに選択肢のみを広げて何も選択しないのが優柔不断であり先延ばし政治ではあるが、それはあくまで選択するタイミングにそれをしていないと言うことである。必要な時に必要な決断を行うことが最も重要なのであって、早くから選択肢を狭めてしまうことは必ずしも良いとは限らない。
マスコミからすれば立ち位置が早くから明確な方がわかりやすいと言うこともあるし、曖昧な目的よりもわかりやすい手段が見えていることは多くの人にも不安を与えなくてすむことは私もそう感じる。ただ、それはわかりやすいと言うだけで正しいとは限らない。

私達が何かを為そうとする時、明快さは安心に繋がる。特に、手段の明快さは私達には非常にわかりやすいため、どうしても用いようというバイアスがかかりやすい。しかし、本当に重要なのは手段の明確さではなく目的と、そこに至る道筋の明快さでなければならない。
その道筋を進むための手段については、利用するかどうかは別にしても少しでも多くの可能性を維持する方が有利なのだ。
個人にしても、政府などの組織にしても、ついつい手段の明確さを示すことで安心を容易に得ようとする傾向が高い。特に、それは他者からの指摘を良く受ける(クレームなどがつく)ところほど生じやすく、わかりやすさ故に安易に届くかどうかわからない目標ではなく今手元にある手段を操作しようとする。
しかし、私達の行動の目的は目標に確実に至ることであり、だとすれば自らの可能性を縛ることは得策とは言えないことをもう少し考えるべきなのだろうと思う。手段に求める明確さは一時しのぎなのだから。