Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

趣味のできる国作り

文明が発達し人々が生きていくのがギリギリでなくなったことにより、生活の中で必須ではない「趣味」という存在を生み出した。もちろん、厳しい生活の折りにも密やかなそれは培われてきただろうが、私達は今趣味を謳歌できる時代に生きていることを感謝すべきであろう。
趣味の広がりは、社会に多様化を促す。それは散漫として明確な目標を持てない社会に近づくものではあるが、それこそが豊かさの象徴であるとも考えられる。悪い方に行き着けば退廃という世紀末現象を出現させるかも知れないが、同時に文化を振興させる素晴らしい機会でもある。結局、国民が豊かに暮らすと言うことは、趣味を楽しむ機会が与えられると言うことに等しいのではないかと思うのだ。もちろん、仕事や研究が趣味でも構わない。

近頃強力な指導力を社会が欲しつつあるのは社会が抱く停滞感が原因と思うのだが、それは同時に心のゆとりの減少にも関わっている。確かに、かつてのアジア初の高度成長を反映して日本はアジア諸国に対して過度の配慮をあまり気にせず行える余裕があった。ところが、成熟した国家には当然生じるであろう低成長に直面し、少し時間が経過したことでよりリアルに実感することで動転している現状がある。
それは経済的な成長に対する期待度の低下であり、そして心理的なゆとりを失っていく過程でもある。広い心を持ち続けられないように見えるのも、自虐的で自信を失っているように見えるのも、結局のところ豊かさを喪失しつつあるという社会全体を覆う実感がそうさせている。「金持ち喧嘩せず」ではないが豊かさを持つものは、動乱により失うものも多い。それが喧嘩しても良いという態度に変わるのは、少なくとも経済的な余裕を保てなくなっているからである。
多くのメディアは、それでも誇りやプライドを持って援助するように訴えかけるが、それがなかなか難しいのは誰もが感じるところであろう。理性では割り切れないのだ。

しかし、国民の豊かさは経済により支えられるが経済が全てであるわけでもない。文化も民度も経済的な豊かさにある程度は従属するのは事実だが、経済に支配されているということではないのである。
かつて、日本が高度成長のピークを迎えた頃から言われている言葉に、QOL(Quality of Life)がある。人生や日々の生活の価値は必ずしも金銭では語れないことから、人生の質を求める考え方だ。そして、私はその質を高めるのに有効なのが趣味ではないかと思う。
趣味に興じられるということは、その分生活に困窮していないということでもあり、あるいは時間を生み出す余裕があるということでもある。もちろんこれらの金銭的・時間的余裕は自動的に与えられるものではない。一部のマスコミなどは、日本の危機を煽りながらも自分たちは大丈夫とばかりにタカをくくっているような論説を書く事がたまにあるが、それはいま日本が持っている数々の余裕に甘えているのではないかと思うことが多い。
いま日本んとって大切なことは、低下していく生活レベルを皆で補い合って耐えることでもなく、逆にどんどんと無駄な消費に興じることでもない。それよりは、日本人が心豊かに生活を楽しめるために必要な富を得てそれを守る。ただ、それだけのことなのだ。
もっとも、それだけのことが世界的な競争の中では必ずしも容易であるとは言えないが、目的を見失いつつある国民が何を求めるべきかを考えるとき、すべての国民が趣味のできる国であり続けること。それは憲法に謳う文化的生活の発展形として見つめ直してはどうだろうか。

別に、仕事が趣味でも良い。趣味が興じて本業になっても良い。もちろん義務としてよりもその状況を維持し続けるために働かなければならないのは間違いないが、その成果が最大限になることを考えることは大切ではないか。ついつい縮小するのが当たり前のように語られがちではあるが、QOLを最大化するような国を目指して欲しいと思うのだ。