人を信用するとは
「人のことを信用するな!」と言われることもあれば、「人は信じ合わなければならない」なんて言われることもある。
もちろんケースバイケースなのは当然であるが、実際私達が人を信用すると言うことは、どのような考え方や状態を想定しているのだろうか?
信用すると言うことは、通常最低二人の存在が前提となる(自分自身を信用するのはここでは除外する)。
自分以外の誰かに対して、何かを任せるに値すると評価したということである。
それ故、人を信用しなければ全てを自分で行うか、あるいはしつこいほどに相手方の行動の妥当性を確認し続けるというプレッシャーを与え続けることになる。そのどちらであっても相当の苦労を伴うのは間違いないであろう(同様にプレッシャーを与えられる相手も苦労する)。
だとすれば、信用すると言うことは自らが全てを担うことが困難であるが故の、作業・行為の委譲のための条件付けである。信用のための評価基準は個々に異なるであろうが、何らかの基準を設定してそれをクリアすることを確認できれば信用に値するというわけだ。
そして、同時に「信用」というプレッシャーを与えることでも履行の担保を図っている。
もちろん、担わせるあるいは任せる範囲は信用のレベルにより異なる。
あまり信用していなければ軽い内容しか任せないし、十分信用していれば重要なものまで任せることになる。
それは自己の仕事を分担して貰う(させる)こと、すなわち自己の義務と権利の一部を一時的に貸し与えることと同じことなのだ。
自己の権利と義務の行使が自分一人で出来るのであれば、わざわざ他人に委ねる必要など無い。
それを敢えて委ねるのは、自分一人の手に負えないか、あるいは別のことをするために他人を利用するのか。
もしくは、自己の権利(義務)放棄である。
自己の手に負えないというのは、助力を必要とする場合。
能力的に手に負えない場合には信用できるものによる助力は必須である。
慎重にその相手を選別する必要がある。
能力的には手助けの必要はなくとも、効率的に他者の助力を必要とする場合。
これは、部下を持つ上司のイメージに近い。
助力者を教育するという命題も同時に併せ持っている。
そして、自己の権利の放棄。
ここには2つのケースがある。
一つは、本当に何もする気がなくて放棄するケース。
もう一つは、信じたいから信じる!!という気持ちになるケース。
その理由が、寂しさ故なのかどうかはわからない。
ただ、信じる理由を探し続けている人は、世の中には驚くほど多い。
こうした人たちは、信じるための理由を探している。
その理由の敷居は極めて低いことが多い。
なぜ、老人を狙った詐欺が多いのか?
彼らは信じる相手を欲しているのだ。
だから、詐欺を行うための条件が非常に緩い。
あるいは、衝撃的なことがあって一時的にパニックに陥ったとき。
この時も、早く動揺を抑えたいがために物事を素直に受け入れやすい。
大災害時のデマなどはこれに該当するだろう。
この最後のケース。
実を言えば、これが人を信用するというテーマを扱うときに最も異質でかつ、問題の多いケースだと思う。
それがどういう前提によるのかはおそらくバラバラであろう。
しかし、彼らは何でも良いから信用したいのである。
それは自分自身を安心させたいがため。
すなわち、彼らは常に不安な状態にいる。
宗教は、そこに救いの手をさしのべる。
カルトの狙い目もそこにある。
信用するかしないかは、冷静な心理状況でしか判別し得ないものなのだ。
「人は、誰もが信じられないと思うと同じだけ、誰かを信じたいと思っている。」