Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

過去が縛るもの

過去の行いが人の将来を左右することは、様々なケースで想定できる。もちろん、ワイドショーあるいはドラマ的なイメージがわかりやすい。

それ故、「過去を清算する」などと言う言葉が様々な場面で用いられる。要するに人生をリセットしようという決心を下すわけである。
しかし、なぜ過去は人の行動に制限を加え縛り付けてしまうのであろうか?

まずは、人にとっての過去と何なのかを考えることから初めてみたい。
過去とは基本的に歴史である。自らの過去は自らの歴史、人の過去はその人の歴史。会社の過去はその会社の歴史だし、国の過去はその国の歴史になる。当然、良いことも悪いことも含めて、その人や会社や国の現在を作り上げてきた素材である。

今の自分自身があるのは過去の積み重ねがあるからであり、そういう意味において自分自身の過去は単なる歴史情報ではない。
他の人を評価する場合に、単純に会話の印象や見える範囲での行動だけで全てを決めるケースは少ない。それ故、その人が過去にどういう経緯をたどってきたかの履歴を補完材料として判断に用いることが多い。
この場合の他人の過去は、単なる歴史情報である。

学術的な歴史研究は、自国であれ他国であれ、それを単純な歴史情報として客観的に把握することが望まれる。あくまで情報として扱い、そこに感情論を加えることは望ましいことではない。

しかし、往々にして人々は自分自身の過去に囚われる。
なぜなら自分自身の過去は、その過去をおおっぴらに否定しない限り現在の自分の正当性を証明する非常に重要な証拠になるからである。
逆に言えば、他者から過去を否定されることは現状の立場を否定されることにつながりかねない。それに抵抗しようとすれば過去を守るための行為を行うことになる。それこそが、過去に縛られるという状況である。
現状を守るが故に過去を守る。現在の自分は過去の自分の積み上げの上に存在しているからである。ブロックを積み上げていくのをイメージすればわかりやすい。

もちろん、その積み上げたブロックが自らの根本に影響するピースでなければ、その過去を否定することは出来る。あるいは、大きな痛みに耐えることを決断してもそれは可能であろう。口で言うのは容易なのだが、現実には部分的ではあっても自己否定は容易ではない。
なぜなら、積み上げてきた過去は自己の主観的な認識によるものだからである。しかも、他者にはその積み上げ方は決してわからない。それ故、客観的な見方が難しい上に、人の手助けを期待することも非常に難しい。他者にはわかりづらいがために、安易で痛みの少ない方向に流れやすいのだ。そこには他者の目という社会的抑制力が働きがたいのだから。

個人レベルでは、嘘に嘘を重ねるケースなどは端的でわかりやすい事例と言える。
一度ついてしまった嘘は、それが軽微なものでなければ無いほど訂正しがたくなる。
嘘が根拠の一つとなってしまっているため、その根拠が崩れることが自己の現状そのものを否定しかねないと考えるからである。
自分自身に自信がない人ほど、それを覆すのが難しくなる。
本来であれば、嘘をついていたことを早期に誤れば傷も浅い。しかし、人間は弱い。
嘘がばれにくい場合、ついついそれに頼ってしまう。頼ると言うことは依存すると言うこと。
依存した嘘は、現在の自分を形作る重要なピースとなってしまうのだ。

別にそれが嘘ではなくても良い。
官僚が、ミスをミスと認めないことはよく知られている。
実際には、個人レベルではミスを認めないわけではないのだが、組織となれば話が変わる。
組織レベルと言うことは、ミスの影響が社会的に非常に大きなケースがある。
つまり責任を取りきれない。あるいは、責任が組織を構成する自分(一ポスト)程度では賄いきれないケース。
もちろん責任を取りたくない場合も含まれる。
その場合、通常は強弁していれば時間稼ぎは出来る。
あるいは問題が広まらないことも多い。

偶然、マスコミなどが取り上げて社会的な非難が高まらなければ、ミスを認めなくても済んでしまうケースが多いことも、認めない理由の一つになるだろう。
そして、ミスを認めると言うことは組織として自らの過去の判断や行為を否定することである。
それは個人のケースのように信用を失うだけではなく、社会的な制裁も受けることになる。
信用を失う以上に組織に属する個人にとっては耐え難い。
組織の信用失墜は、属する個人の信用を毀損するものではない。しかし、個人的に責任を問われるのは重大事である。
だからこそ、関係する個人(あるいはチーム、部署)はミスを認めない方向で動こうとする。

最近で言えば、フジテレビによる韓流ごり押しケースがあるだろう。
あれがミスなのかどうかは現状で判別しがたいが、一部の国民の反発を招いたのは事実である。
私は、基本的には利益追求のためにブームを煽ろうとして、それが失敗した事例ではないかと見ている。
しかし、反発がほどなく収束すると考えれば、経営判断がミスであったとは認めないであろう。
認めるとすれば、それが企業経営に重大な問題を引き起こすと判断せざるを得ない状況に陥った場合だと思う。
今は、まだそこまで達していない。

そして、日中韓歴史認識問題も同じような構図にある。
非難のための歴史認識は、国という権威を抱えているが故に撤回できない。
それが自国教育まで及んでしまった現状では、困難性はさらに高まっている。


では、過去に縛られることはいけないのであろうか?
これはなかなか難しい。
過去が現在の自らを形作っていることには既に触れた。
その過去に訂正すべきことが生じれば、全て訂正するのが普通の考えである。
ただ、その痛みに本当に耐えられるのか?
常に清廉潔白でいられるのか?
そう考えてみるとこれはなかなか難しい。

嘘も方便と言うが、社会を生きていく上では適当に流すべきこともある。
それ故、何から何まで訂正すべきだとは私は思わない。
ただ、早期に訂正しなければならないことに気づくケースは当然ある。
その場合、今の自分を守ることが大切なのか、それとも未来の可能性を守ることが大切なのかを自問自答しなければならない。通常、若ければ当然未来の方が大切である。
しかし、一定以上の年齢を経たとき、、、それは非常に難しい。
プライドしか、使えるものがないように思えるからである。

「過去を捨てられるのは未来があるものの特権である。それはおそらく国家においても正しい。」