Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

感情を抑えた自己評価の重要性

日本という国は戦後高度成長という世界にもまれに見る成長を遂げてきた。
そこには、当然のことながら自分自身の状況を冷静に見つめ、適切な評価を為した上での行動が伴ってきた結果が見いだせる。もちろん、朝鮮戦争が外需に寄与したり、冷戦構造が日本の成長をアメリカが望む原因となったり、、、などの環境面があったのは事実であろう。
しかし、日本自身に判断や対処が出来なければ、いくら良い条件があっても高度成長は成し得なかった。

企業の品質改善サイクルの基本に、PDCAサイクルというのがある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/PDCA%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AB
P:PLAN(計画)
D:DO(実施)
C:CHECK(点検・評価)
A:ACT(処置・改善)

これを繰り返すことによって、品質や生産効率をどんどんと向上させていこうというものである。
PDCAサイクル自体は非常に基本的な考え方であり、その発展系の品質管理システムが企業においては採用実施されている。

ここで、最も重要なことはCHECKだと私は考える。
これは、自己評価なのだ。
自分自身の行動の結果を冷静かつ的確に認識すること。
これが曖昧であったり正しく認識されなければ、その後の処置が不適切なものになってしまう。

高度成長時代が成立し得たのは、このCHECKが機能していたからだと思う。
それが優れた(というよりは時機に合った)官僚制によって成立したのか、あるいは一部政治家の慧眼により成立したのかは、私には明確に論評できるものではないが、おそらく両者であったのであろうと思う。

さて近年の日本を見たとき、政治であっても行政であっても冷静かつ精緻な自己認識は出来ているのであろうか?
私には、その認識を日本以外の他者(他国)に委ねているように見えて仕方がない。評価が妥当かどうかではなく、評価そのものを他国に委ねてしまってるのではないか?
もちろん、完全に他国に委ねているわけではない。しかし、他国の評価を大きく気にすることで、結果的に冷静な自己分析が行えていないのではないかと言うことだ。

それは、アメリカ依存とか、媚中・親中などで呼ばれるようなケースもそれに当たるであろうし、別の面でもそれが垣間見える。

例えばどんな面か。
それは、新聞報道が誘導する日本の謝罪外交などはまさにその典型である。
もちろん、東アジア諸国に配慮をするなと言うものではない。
ただ、その配慮の評価を自らが手放してはいけないのだ。
韓国や中国が行う判断では、日本の改善サイクルは歪められてしまう。
だから、意見としてはこれらの国々の意見を聞いても良い。
しかし、最終的な判断は日本が自ら理想と考える形のために、自らが下すべきであり、それが主権国家の本来の姿であろう。

しかし、国家主権に批判的な勢力はこの面を持って、他国への配慮が足りない、反省がない。。。などと主張する。その主張の引き合いには他国の人間を持ち出す。
それは、日本全体がそのように自主的に考えて行うのであればいい。
しかし、他国の思惑に囚われて行うものであれば、何をしているのかわからない。
その自主的な判断が見えてこないのだ。

それは、まるで日本という国が自主的な判断を行うことを畏れているようにすら見える。
それ故に鎖をはめ込むように。

再度書くが、自己認識・自己評価をすることは、主権国家としては至極当然のことである。
もちろん、変な国粋主義に進めと言っているわけではない。
材料として様々な意見を吸い上げるのは全く問題はない。ただ、その判断を他国の事情に委ねる、他国の意思に委ねる、、、そのようなことがあってはいけないと言っている。

日本の政治判断を、仮に中国やアメリカの顔色を窺って変えているようであれば、それは独立国として著しく不適切なことなのだ。
実際、そうした面が垣間見えるからこそ、未だに日本は属国と揶揄されたりするのであろうが、そうした声が出ていること自体が喜ばしい状態ではない。

さて、評価の話に戻ろう。
こうした評価を行う際には、冷静に問題を分析しなければならない。
すなわち、感情論に支配されてはいけない。
もちろん、大きな視点での判断はあっていいのだが、その際にもメリットデメリットを冷静すぎるほどにまで冷静に判断する必要がある。

さて、今日本で問題となっている数々の事案。
どうも感情論を煽っているところが多い。
それも、日本という国の判断を不適切なものにする役割を果たしている。

感情論を無視して良いとも言わない。
ただ、それはあくまで評価項目の一つでしかない。
感情論で全てを決めてはいけない。

さて、感情論に訴えるのは誰か?
これはマスコミの得意技で常道手段でもある。
これは、左翼系でも右翼系でも、基本的には同じだろう。
日本の戦後賠償問題も、もはや感情論に支配されている。
一方で、それを否定する報道も同じ土俵を使おうとしているように感じる。

これでは何も解決しない。

私は、よく朝日新聞毎日新聞を批判する。
その理由を突き詰めて考えてみると、
報道を感情論で切っている。
最終判断を他国の世論に委ねようとしている。
この2点が大きく気になっているのだと気づいた。

おそらく、それでは日本は良くならない。
なぜなら、適切な自己評価を行っていないからである。

産経新聞なども、国内世論を煽っているという意味では方向は違えどスタンスが同じような記事も多い(他の新聞も同じ)。
不偏不党を謳いながら、実のところは自己判断を投げてしまっている。ただ、それでは悔しいので自分の考えに近い何かを引用する。
要するに、誰も責任を取らない社会となっているんだろう。

そして、それは報道と政治において強く意識される。

「感情は使いやすく制しがたい。だから、煽動に用いられ封じ込められる。そして、感情を猛らせるのは国民だが、それを煽って利を得ようとするものが必ず存在する。」