Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マスコミの薄皮リテラシー

マスコミが、霞ヶ関の情報をほとんど無意に垂れ流していることについては多くの国民は既に理解している。その上で、失政については政治家や霞ヶ関のせいにして自らは無事なポジションを確保している。多くのマスコミが速報性を重視するあまり、ほとんど内容を咀嚼する時間を持っていないことはよくわかる。実際、記者達にはあまり時間がないのだ。しかし、同時に取材して始めてその問題を一から勉強するわけでもない。そもそも取材対象に対する深い造詣があれば、その少ない時間であってもポイントを十分に記事にできるであろう。

実際、私がニュースの中身を考える上でもマスコミ情報は通り一遍の価値しか与えられない。多くは様々な専門家達などの発信する情報を取捨選択した上で自分なりの判断を下す。もちろん私の下した判断が正しいとは限らないが、少なくとも自分なりには納得できる理由を有している。
未だマスコミが世論形成に大きな力を保有していること自体は認めるが、それを徐々に失いつつあるのは新聞社の経営危機やTVの視聴率低下を見ても明らかだ。
それはなぜか?彼らの発する情報は底が浅いのである。
考えてみれば当然のことである。記者というものは、その分野を取材こそすれその分野の専門家ではない。専門家の言葉を分野をかじっている素人としてわかりやすい言葉に翻訳している翻訳家なのだ。だとすれば、よりよい翻訳が巷に溢れてくれば彼らの価値は下がるのが当然の成り行きである。要するに記事を追いかけることに多くの時間を割き、記事にする分野のことが十分に理解できていないのだ。
人にものを教えるには、中途半端な理解では全く心許ない。対象に対する十分な理解無しに正鵠を射た文章を読者に届けることはできないであろう。彼らは、国民が情報リテラシーを持つべきだと良く言う。しかし、マスコミはそれ以上に高いレベルのリテラシーが必要であるのは当然のことではないか。果たして彼らはそれを保有していると言えるのか。

さて世の中には数多くの専門家達がいて、政治家や官僚も当然その中に含まれるが、彼らのブレーンとして取り上げられる専門家も数多い。また、政府などには取り上げられないもののその政策を痛烈に批判する専門家もいる。ただ、彼ら専門家も経済動向の中で完全な独立を獲得できる可能性は著しく低い。多くの場合には収入を得る上での、あるいは自らの社会的立ち位置を獲得する上でのポジショントークが含まれている。
それは必ずしも否定されるべきものではないと私は思う。御用学者と批判の大きな声が湧き起こっているが、御用学者が全くいないということも社会を円滑に回す上では大きな障害となる。最後は学者自身の良心がどれだけ機能するかという点にかかっているのである。最も大きな問題は、多彩な意見が飛び交わないような閉鎖された言論空間であろう。全てが政府反対の言論に押し流されれば、それは御用学者により固められた少し前の原子力村と大きく違いはしない。
そして、様々な問題に対する多彩な言論をマスコミなりの見識を持って分析・評価して報道するのが本当の形なのだと思う。単に意見の併記のみでは足りないし、専門家でないマスコミが独自の考えに基づき問題を煽り立てるのも違う。
しかし、現状においてはせいぜいいくつかの意見を併記するに留まり、多くの場合には私達が納得できるような分析までには至っていない。ましてや様々な意見を集約評価したマスコミなりの言論と思えるものには滅多に出くわさない。多くは、多彩な意見を聞く前に自分勝手に方向を決め、都合の良いところつまみ食いした内容なのだ。そしてだからこそ、ネットの専門家達による言論にも大きく後れを取る。特に、狭い文脈での正しさと大きな視野における正しさをごちゃ混ぜにして発表するケースが多く見られる。要するに都合の良いところのみをパッチワークのように貼り合わせているのだから、ボロも出やすいわけだ。
さて、これがマスコミが求められるリテラシーと照らし合わせてどうなのだろう。

ところで、最近現政権と自民党政権時代とのマスコミの論調の違いがいろいろなところで揶揄されている。自民党政権時代も酷い大臣がいなかったわけではないが、少なくとも今よりは随分マシであったにもかかわらずマスコミは解散を吹聴し、今は問責を突きつける野党自民党の問題だと断ずる。正直言って、この露骨なダブルスタンダードには苦笑すら禁じ得ないが、逆に言えばそれだけのことをして擁護しなければ民主党政権というものを維持しきれないと考えていると言うことでもあろう。
逆に言えば、マスコミにとっては野党に落ちた現状は見えず、今も妥当すべきは権力者であると決めつけている自民党と言うことでは無かろうか。そこにこそ、まず自ら定めた形に当てはめて論陣を展開し、それを修正できない弊害が現れているように感じるのだ。国民の多くは自民党の凋落を目にしてその先を渇望している。しかし、かつて張った論陣故か自縄自縛の如く同じ場所に留まろうとしているのはマスコミの方かも知れない。

「左翼的だからと言う訳ではないが、マスコミはまず徹底的な自己批判から入る方がいいのではないだろうか。」