Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

安全率

「安全率」という言葉がある。人間の行いには完全はあり得ないからこそ想定される係数だ。言い換えれば「余裕度」でもある。
この係数は、技術の世界以外にも社会のあらゆるところで用いられている。率という数字では用いないかもしれないが「余裕を見て。。。」とか「安全を考慮して。。。」などと。未知の変動に対処しようという方法の一つである。

この未知の変動は未知であるが故に想定を超えることも少なくない。それは知見が及ばなかったと言えばそれまでかもしれないが、そもそも人間の知見など基本的に及ばないことが当然だと考えれば、それに応じた安全率が確保されていなかったと言うことになる。
安全率とは、まさに未知を想定することでもある。

でも、考えてみれば未知を想定するというのも難しい話である。想定しようがないから未知であるのであって、想定できるのであればもはや未知ではない。わからないのであれば、未知に関しては無視しておいて良いと言えるというのも無責任な話である。結局のところ、未知に対して既存の知見を用いて最大限推測しようという行為が必要とされる。
そして、その推測の変動幅を安全率というものを用いてカバーすることになる。

さて、未知にもいくつかのケースが存在する。
全く知られていないのではなくその存在は知られているものの、当該現象においてそれが発生するとは考えられなかったケースが一つと、もう一つはその存在自体が全く知られていないケースである。どちらにしても、生じることを想定していないという意味では同じであるが、取れる対処は当然ながら異なる。

例えば工業製品などの不良品が発生する確率などは、どんな不良が発生するかを予測することは困難ではあろうがそれがどの程度の頻度で生じるかは比較的わかりやすい。それ故に、一定の不良率を想定したり、あるいは特定品質以上を確保するための安全率を想定することは容易である。
ところが、滅多に生じない地震などに対する安全率は数学(確率)的には想定できるのだが、それがどれだけの意味を持つのかが今ひとつ判然としない。理解できない私の頭が悪いと言われればそれまでなのだが、確率を使用することができるのかどうかの検証にしっくりとこないものを感じている。
もちろん、全く確率を無視して良いとは言うつもりはない。ただ、そこから導き出される確率にあまりに寄りかかりすぎることは正しくないのではないかと思うのだ。
すなわち、確率を利用してもとめられる安全率も同じである。本当の気持ちを言えば「確率上はこうですが実態はよくわかりません。」と答えたいところではあるが、それを許さないのは社会であるのだろう。

人々は、わからないという曖昧さを許さない。本当はわからないものも、一定の理由を無理矢理つけてわかったように扱う。そうしないと社会の様々なシステムが合理的な行動をとれないからだ。ただ、だからこそいざ想定するもの以上の何かが生じたときに、大きな混乱が生じることもある。
物事の真理を突き詰めることは非常に重要なことではあるが、現象が稀であればあるほどその本当の部分は推察による。そして、それを補うために一定の安全率をプラスして備えることになる。ただし、元々も発生確率が曖昧であれば安全率など正確に想定することはできなどしない。
多くの科学者や技術者達はそのことを本当は知っている。知っているにも関わらず、それを大きな声で言えないのは社会の仕組みが許さないからであろうと思う。

「わからないものを正しくわからないと伝える行為は、やはり重要なのではないだろうか。」