Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

理想と現実を混同すること

「こうあるべきだ」という理想を抱くことは非常に大切なことだと思う。
全てにおいて妥協を繰り返せば、最終的に得られるものはおそらく何もない。
ただ、漂っているだけような虚ろな自分を見いだすことになるだろう。

だから、「こうありたい」、「こうあるべきだ」という理想を持つことは、人が自らの人生を主体的なものとして獲得していく上で、必要不可欠なことなのだと思う。それは自らが課したゴールであり、意欲をかき立てるためのエネルギーでもある。

ただ、だからといって全ての人が自らの理想を勝ち得るわけではもちろんない。
理想のレベルにもよるが、多くの人は理想と現実のギャップにさいなまれる自分を経験する。
その葛藤を経験することが、大人になると言うことなのかもしれないし、あるいはそこでの許容できる小さな妥協の使い方が、社会というものを構成する潤滑剤なのかもしれない。

問題は、自ら掲げた理想を絶対的な正義であると混同してしまう人が、少なからずいることである。
例えば、憲法9条を保持していれば世界平和が導かれると考える人もいれば、国歌斉唱を強いられることで身体に障害が出る(らしい)人までいるそうだ。

別に、個人として思想の自由があるのだからどう考えようと良い。だから、「自ら」に理想を強要することはいくらしてもらっても、周りに迷惑をかけない範囲ではかまわない。
問題は、自らの理想の押しつけである。

「こうあるべきだ」というのは、あくまで個人、あるいは特定の団体による考え方であって、それが普遍的なものであるという証明などありはしない。自らがそう宣伝しているに過ぎない。

もちろん、平和が重要なことは誰もが認めている。
そうなればいいと理想としては思う。
ただ、その理想に至るには山ほどの障害を乗り越えなければ至らない。しかも、最も重要なのはその理想を信じていないものにも、納得させなければならないのである。
ここで、論理の飛躍が生じる。

だから、皆を説得するのだと。。。
理想を信じないものは、説得する対象であると。

でも、それは違う。
本当にその考えが普遍的なものであるならば、説得などしなくても受け入れられるものである。
時間はかかるかもしれないが、着実な広がりを見せるであろう。
そうなれば、誰もが無視など出来なくなるはずである。
ところが、その広がりはあるレベルで止まるのが普通である。
なぜか?
受け入れられないのは、結局それが普遍的ではないからだ。
その考えている普遍性は、「たかだか」文化的な違いを乗り越えられないからだ。

理想を持つことは悪くない。
しかし、その理想を押しつけている瞬間に、おそらくその理想の崇高性は失われている。

彼らは言う。
「私達の掲げる理想は正しいでしょう?」
おそらく、理想は正しいのだろう。
間違っているのは理想に至る手段であろう。
理想を自ら実践すれば、その結果理想に到達できると振る舞うケースが多い。
日本が非武装になれば平和が得られる??
理想に準ずるのは個人の自由である。
しかし、それは個人レベルの思想にとどめてほしい。
それを広げようとする行為それ自体が、実は理想を阻害する役割を果たしているのだと気づいてほしいと個人的には思う。

「理想は、それを推し進めるものがその犠牲になる覚悟がなければ、単なる夢想に過ぎない。」