Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ハロウィン騒動

 時事ジャンルには入れたものの少し時機を逸してしまったところではあるが、せっかくなので書きとめておきたい。そもそも、日本でハロウィン自体が独自の形態を構成しながら流行る事については、反対する人はそれほど多くはないだろうと私は思う。バレンタインもクリスマスも、日本においては独自の進化を遂げている。オリジナルと違う事をいぶかしむ人もいるのは事実だが、だからといってその行事が否定される訳ではない。

 今回大きく問題として取り上げられたのは、ハロウィンに参加する人たちのマナーの悪さである。マナーの悪さがクローズアップされたからこそ、翻ってハロウィンそのものの是非にまで話が広がった。それは、参加者のマナーという形のみで取り上げても、問題をクローズアップできないと考えたからであろう。
 こう言った手法はメディアが普段から当たり前のように用いているため、我々としてもそれに慣れており方法論に強くケチは付けにくい。建前上で言えば、マナーが悪かったという大きな事実があり、それは否定できない事がある。

 しかし、私としてはこの問題を単なるマナー問題とは考えていない。騒ぎに関するマナーの問題はあるが、ハロウィンのお祭り騒ぎが広がる裏側には、男女が戯れる場を作れるというのは意味があるのではないか?逆に言えば、それがあまりないのが今の日本社会ではないかという問題提起である。
 街コンと呼ばれる街中の合コンが取り上げられるなど、婚姻率の向上にいろいろと対策が打たれているのは間違いないが、こう言った仕組みは公的性が高まるほどに上品なものになっていく。その上品さが無意識に忌避されるからこそ、今回のようなハロウィンを題材とした馬鹿騒ぎが求められるのではないかということである。
 日本でも、昔から祭りの時には男女が戯れるのが普通の話。もちろんその時にしかできないという「ハレ」の意識が根底にはあったのかも知れないが、今の時代にヒメゴトへの流れをおおっぴらにできる機会はそれほどない。バレンタインも個人としての行動であって、それを後押しする若者たちの大きな動きはない。むしろ告白を抜け駆けするという競争であった。
 菓子メーカーなどが競争イメージを利用しながら進めたキャンペーンに疲れてしまった若者たちは、お互いを慰め合うような友チョコという流れに入っていく。

 日本の文化にも、多くの男女が解放感を味わいながら(時に性的なことを含めて)交流していく仕組みはあった。麻薬などの暗い影が付きまといがちではあるが、かつてのヒッピー文化から最近ではレイブや怪しいクラブなど自分の殻を取り払う雰囲気を求める動きはずっと存在する。気になるが、暗部を持つか故に敬遠してしまう人からすれば、ハロウィンパーティーを代償として持ち出すことに違和感はあるまい。
 それはすなわち、一種恍惚感を味わい陶酔しながら我を忘れるような場所が、どこもかしこも綺麗な場所になっていることの裏返しではないだろうか。無論、犯罪を許してよいと言っているわけでは無い。しかし、それを叩きすぎる故に清流に魚が住まない状態を生み出していないだろうか。

 私は、別にハロウィンである必然性はないと考えるが、似たような何かは必要ではないかと思う。最近の若者は冷めているとよく言われる。もちろんそれは以前からの言葉かもしれないが、冷めざるを得ない社会がそこにあるからではないかと考えてしまうのだ。
 例えば、Sealds(http://www.sealds.com/)などのデモや考え方には私は全く賛同しない。正直話し合っても意見が通じることはないだろうと思う。しかし、何かを発散できる場所が若者たちにあるということは非常に重要なことであると思う。
 今回のハロウィンの件も全く同じ構図だ。他者から見れば迷惑極まりない単なるバカ騒ぎに過ぎない。しかし、それが生まれ出る要因は間違いなく存在する。誰もが意識していないことかもしれない。ただ、これを盛り下げない方がよいと思う。消滅させるのではなく、街と共存できる形を見つけてもらいたいと思うのだ。