Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

女性手帳

 女性手帳の配布が非常に不評だそうだ。
不評の「女性手帳」当面配布見送りへ(http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130528/k10014885871000.html

 そもそも論として、昨年あたりから年齢の高い女性の妊娠率が極端に低くなることがマスコミでも話題にされてきた。専門家の間では当然の認識であったことだろうが、それがより多くの人たちの関心を惹いたことは悪い話ではない。結婚家庭の平均子供数はおおむね2人を超えているので日本の人口減少の最も大きな要因は結婚しないことにあると思うのだが、付加的には高齢になることで子供を産めない可能性にも配慮は必要だろうと思う。確かに出産は個人の自由である。しかし同時に子供は国家の礎でもある。少子化は国を滅ぼすとは極端であるが、少子化が国の活力を削ぐのは間違いない。

 少子化が国力に影響を与えるのでなければ、国がわざわざ少子化担当大臣を設ける必要もない。出産補助などの事業を行う必要もない。少なくとも、少子化が国家としての大きな問題であるという認識は社会的なコンセンサスを得ていると考えてもいいだろう。もちろん、その感覚は切迫しているというほどの認識がないというのもまた事実であろうが。
 だからと言ってこの状況が一足飛びに解消されることはありえないし、無理をして移民を導入すれば別の面での軋轢を引き起こすこともあり、容易に人口回復の道のりに至ることはすでに無理である。現実に随分昔から現状のような人口減少を引き起こすことは十分想定されてきたわけであって、逆に言えば政府は人口減少に対する対策が後手に回ってきたという非難のそしりは免れ得まい。そして、責任の大部分はかつての自民党政権にあったと言っても良い。

 では、人口減少が十分予測されていたにもかかわらず有効な対策を打ち出せなかった一番の理由は何なのだろうかという疑問に行き着くことになる。別に少子化を促進したかったということはあるまい。無作為により放置せざるを得なかった理由があるのではないかということだ。
 私たちとしてはこうした政府の無策を非難することは容易であるが、官僚は早期に状況をつかんでいた訳だし対応の部局も古くからある。政治が本腰を入れなかったというのも確かに主因であろうが、同時に出産は個人の自由だという社会コンセンサスを覆せなかったことがあるのではないかと思う。すなわち、政治はそこまで立ち入るなという無言の圧力である。

 こう考えると、今回の女性手帳の配布に対する意見もなんとなく合点がいく。国家維持のための出産という視点と、個人の自由としての出産という問題がせめぎ合っている状況を手をこまねいていたという話である。国家の主導という姿は、個人の自由を奪うという側面で見て政治家として推し進めることができなかったという部分ではないか。
 ただし、フランスなどは多産家庭に厚い補助を配することで少子化を食い止めたという事例もある。日本でも、子供手当を出すという民主党の動きがあった。子供手当は、フランスほどではないにしても多産家庭を優遇する政策ではある。経済政策としての子供手当はあまり良策とは思わないが、少子化対策のものとしては決して悪いものではない。いまだに不思議なのはなぜ民主党子供手当を経済対策として位置付けていたのだろうかということだ。日本の将来のための少子化対策だと明確に言っていれば、社会の受け入れ方も違ったように思うのだが。実際、私も経済対策としては子供手当は非効率だと批判してきた。

 子供手当は財源問題により、元の木阿弥に戻った。この場合の財源上の制約はおそらく医療費と年金であろう。言い方が適切ではないかもしれないが、少子化対策は高齢者対策よりも後回しにされているということだ。女性手帳の問題でもそうだと思うのだが、将来よりも現在のイメージがこうした場面から感じている。
 現状ではとりあえず問題ないから対策は取らない。このロジックは、日本の自衛隊国軍化にも用いられている。憲法上明確でない自衛隊という存在を軍として明記しようという動きに反対する人は多い。それは世界の平和を乱すといった趣旨が使われるが、今これが問題となっているのは中国や韓国あるいは北朝鮮のちょっかいが起点である。それがなければぬるま湯は今も許されていただろう。少しの間問題がなかったからと言って、それが永遠に続く保証はどこにもない。むろん、それがすぐに軍としても位置づけにつながるわけではないが、入り口でシャットアウトする話でもないと私は思う。
 私たちは確かに現在に生きている。だから現在が幸せでなければ将来もないようにも思える。しかし、将来が幸せなら人は生きていける。その将来の幸せは、私たちではなく子供たちの幸せであってもである。反射的な対応ではなく、もう少し時間をかけて考えてみたらどうであろうか。