Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

便利さの先に何を求めるか

 文明の発展は、あるレベルまでは自然からの脅威を避ける子とを目的とする受動的なものであった。しかし、発展が最低限を超えると次の目的を探し続ける。一部においては発展そのものが経済という名を借りて自己目的化し、社会がそれを受け入れる側に位置するようになる。物理的な生活レベルは向上するかもしれないが、精神的な面では動機が不明瞭化する。これは真の意味での「文明の発展」なのだろうか。
 便利が純粋な正義であった時代から、動機の純粋さが失われる状況に達して初めて私達は文明の発展との向き合い方を再考しなければならない岐路に立つ。かつて一部の人々のものであったネット中毒という症状は、スマホの普及による爆発的な拡大を迎えている。人は個では生きていけない存在であり、常に誰かと繋がっていることを確認しなければ不安に苛まれる生き物である。本来はリアルな家族や友人・恋人との触れ合いにより充足されるものが、緩やかな繋がりの中で漂うことによりリアル接触につきもののディープなやり取りを回避し、情報の内容を混沌から純化に向けようとしている。現代の情報化は、こうした試みをパーソナルなレベルで可能にした。

 私達は、限定的とはいえ都合の良い情報のみを取捨選択して得ることが可能となった。無論そこには現実に根差す様々な条件が横たわるし、あるいはこうした状況が永遠に続く訳では決してない。そうであっても理想形としての桃源郷が自らに安心を与えてくれる状況の永遠性にあるのだとすれば、短期間かつ部分的に近づく擬似的システムに人が惹きつけられるのもやむを得まい。
 しかし、あくまでもこの擬似的な桃源郷は現実を一歩離れたところに存在する。心地よい情報は一時的に心の隙間を埋めてくれるだろうが、その状況はおそらく自己認識を理由として永続させることができなくなる。まず、受動的な立場でしかない自らの価値をこの環境は対外的に知らしめることがない。細かな情報のやり取りはなされるだろうが、その情報すらほとんどの場合には自らの作り出したものではなく、人は情報の流れの中に存在するHUBに成り下がる。情報を整理する役割は社会において重要ではあるが、そそ存在のみが増加すれば価値は激減する。情報を利用しているつもりが翻弄されてしまえば、私たちは自分自身の意味そのものに疑問を抱かずにはいられない。翻弄される状況はリアルな家族・友人関係の間でも生じうるが、存在が緩やかで稀薄であればあるほど強く意識させられる。もちろん人々はそのことを念頭から遠ざけようと努力するし日々の生活からその疑問を追い出そうとするが、それゆえに現実の生活とのギャップをますます強く意識する。人々は貪欲なものである。面倒は避けたいが薄い付き合いにいつまでも満足し続けられるとは限らない。人々は自らが傷つくことを恐れ深い接触を避け、自らが孤立することを恐れつながりを探し求めている。

 情報化の進展は人々が情報HUBとなることを劇的に推進し、人々は自分を通過する情報に安心するようになった。現代の村八分は情報過疎によりもたらされ、私たちは情報に接することを便利さの象徴だと誤認する。情報が重要であることに異論はないが、それは現代社会の中に溶け込むための条件であって、生きていくための条件ではない。いつしか人々は自分の生活を便利にするはずのものに使われ始め、そのシステムを補完するための部品として取り扱われる。
 情報も文明も、基本的には私たちが豊かに生活していくための道具の一つである。仮に豊かな生活がこれらを必要としないところにあるならば、両者は道具どころか弊害となりうる。使っているつもりが使われている状況は酒に溺れる場合と何も変わりはしない。

 技術は社会に便利さや快適さを提供する道具である。しかし一定の到達点に至った現在、本当に目指すべき快適さには単純な便利さ以外の何があるかを考え直す必要があるだろう。これは、受け入れる側の人々にも突きつけられている大きな問題である。
 酒に溺れるのは個人的な責任であるが、子供たちには防波堤が設けられる。情報に溺れることも同じではないかをまず考えてみたほうが良いのではないだろうか。