Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

国会議員資格試験

 鳩山・菅などは私の感覚では拭い去れない日本政治史上に残る汚点だと思っているが、同時にこんな人物が総理大臣になり得たことは日本の政治システムに欠陥があるからではないかとも考える。もちろん、大原則として政治にはなるべく多くの声が反映されるべきだという意見には賛同するが、明らかに資格を持たないと思えるような国会議員(地方議会議員も同じ)が出てくることも同時に阻むべきだと思うのだ。そして、阻まれるべき存在としては2つのケースがある。まず能力の低い勉強しに行くような存在と、能力はあっても日本の成長に寄与できない存在である。鳩山・菅は後者に属するのは言うまでもない。

 思い返してみれば、かつてのマドンナ旋風から小泉チルドレン小沢チルドレン、結局その風に乗り生まれた議員のどれだけが国に役立ってきたのだろうか。もちろん少ない中から一部でも力を発揮する人が出れば儲けものという見方もなくはないだろうが、それほどの猶予を持てるほどの余裕を見せつけられるような状況ではないし、そもそもそんな人物を私は知らない。
 チルドレン達はそれでも幾ばくかの意味があることを強弁するだろうが、元を正して考えれば議員になってから勉強するというのはあまりにお粗末である。少なくともなる前に最低限の知識と情報は知っておくべきものだと私は思う。だとすれば、少なくとも国会議員になるための最低限の資格は国家資格として縛っても良いのではないかと思う。どんなにフレッシュであっても、どんなに清廉潔白であったとしても、政治的な常識に欠け実行能力がなければ数合わせの飾りにしか過ぎない。国会議員として国政に携わることができる最低限を策定しておくというものである。

 ちなみに現在の国会議員の被選挙権は公職選挙法により定められており、憲法第44条により「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」とされている(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html)が、最低限の常識や知識を制限することはできそうである。
 無論、こうした資格を厳しくすることで政治の既得権益化が進み、あるいは新規参入が権力側から規制されてしまうという危険性も考えられるが、特定の政党の手が及ばない資格試験を独立した機関を設立できればそれも抑制できよう。いや、そもそも論として常識的なテストを課すとすれば現状既にある国家公務員試験を準用しても良いではないか(あくまで駄目な人間をふるい落とすものなので合格点はかなり甘くても良い)。少なくとも国を引っ張っていくべき使命を負っている国会議員には、最低限の知性と教養が備わっていることは必須であるし、その上でパワーと度胸が必要となるのである。

 さて、鳩山も菅も高学歴(東大と東工大)であり上記のような政治家資格試験を事前に課したとしても難なくクリアするだろう。ただ、不見識な議員が減れば今より彼らの意見に付和雷同する議員は少なくなるという淡い期待は抱いておきたい。他方、政治家養成塾とも言える松下政経塾の結果も現状を見る限りにおいては、事前の素養を醸成することもまた容易ではないと感じる。結果論だけから言えば、政治家養成塾として必ずしも狙いを果たせているとは言えない。
 それは、彼らが政治家が何をすべきかの精神面ではなく方法論を学んできただけではないかと感じる部分に現れている。もちろん彼らも優秀な成績を残してきただろうし、政治家資格試験を課しても難なくクリアするだろう。だとすれば、もし政治家を志す人に課すべき試験があるとすれば一体何なのだろうかと悩んでしまう。最低限の教養は当然クリアして欲しい(変なタレント議員を排除するという意味において)が、それだけでは今ひとつ不足する。

 結局のところ常識で選別することはできても政治力を測ることは試験ではできそうにもない。だから、これは資格試験で排除するのではなく政治活動を通じて選別される仕組みを考える方が望ましい。多様な意見が出る中での集約を計るのが日本の良さだとすれば、政治的な能力の低さまでを最初に排除するのは良くないと考える故である。
 結局のところ総理の直接選挙制の導入を目指すか、もしくは有権者の監視の目が今以上に厳しくなるかということしかないのかもしれない。鳩山や菅が総理になったのは民主党という不完全な政党が政権についてしまった結果なのだから。