Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

レイシズム

 最初に書いておくが、私は「在特会」のような行動を容認しないし恥ずべき行為だと考えている。事実を得るために行動し言論を持って批判するのであれば、それは一つの意見表明として鑑みるべき点もあるかもしれないが、メディアから漏れ聞こえてくる行動はその気配を感じさせるものではない。憶測と偏見により行われる差別的行為については賛同することはないも無い。
 欧州におけるネオナチ的な活動も、概括すれば同じようなものである。ただし、簡単にこうした問題をレイシズムとして吐き捨てて忌避するだけではなく、その成立をもとに考えるべきなのが「国」というもののとらえ方ではないかとも感じている。

 メディアは批判一色であり、私も彼らの短絡的な行動には大いなる問題を感じているものの、こうした行為が表面化してくる背景には何があるのかという深層に切り込む情報が不十分だと感じている。上述したように、排外主義的な若者の行動は日本のみならず世界中で見られるものである。むしろこれまでの日本におけるそれが少なかったのが例外的であったし、今でも一部の突出した行動が目立つものの世界的に見れば穏便なものである。
 考えても見れば中国や韓国における過激な行動は日本の比ではないのは、日本のメディアはあまり報道しないかもしれないが現地の報道を見ればよくわかる。何処の国でも経済的な問題が広がるほどにこうした現象は生じやすいが、本当にそれが根本的な問題であるというわけではない。かつて中国や韓国が貧しかった時代であっても今ほどに反日的ではなかったし、日本は若干低迷しているとは言えど経済危機の渦中にある訳でもない。
 それは現状に満足できるかという基本的な問題があり、同時に社会に対して憎しみを向ける相手が誰に向けられるのかによるのである。中国や韓国の反日は、体制維持のために利用する非常に厄介で日本にとっては迷惑なものではあるが、矛先を日本に向けるという教育の賜である。反日教育が諸刃の剣であることについてはここでも繰り返し触れてきたし、最近では一部のメディアでも頻繁に触れるようになってきた。

 最近では、韓国の閣僚クラスなどでも当たり前のように日本という国に対してひどい言葉を吐き捨てる。メディアならいざ知らず、責任ある地位の人々がそれを口にするという意味をどのように感じているのかと私は思うが、少なくとも日本の閣僚が自国の認識について触れることはあっても、韓国や中国を悪しざまにこき下ろすことはない。
 そのような行動に至る理由にはいろいろとあるのだろうが、結局のところは衆目の関心を集める手っ取り早い方法であるというのが私の思うところだ。「在特会」の迂闊でかつ眉をひそめるような行動も基本的には変わるところがない。自らを取り巻く状況や環境が悪化し(韓国の場合は経済状況、在特会の場合には個人的な経済状況など)、その自らの苦境を他人のせいにするとともにそのことの自己正当化を図る行為ということだ。この認識は、むしろ日本的ではない。中国や韓国においては歴史的背景もあって、問題はすべて相手のせいとして責任を相手方に押し付けるような風潮がある。そのためにはあらゆる要素を総動員して相手を非難する。この感覚は日本人からすれば非常にわかりにくいものである。自らを改善することで問題解決を図ってきたのが日本のやり方であるとすれば、正反対といってよい。

 私は自己改革で自らの価値を上げていく日本的なやり方は世界に自慢してよいと思うが、太平洋戦争に突入しなければならなかった状況を作り出した一因は、その内在的すぎる思考形態があったかもしれないとも考えている。自らの改革だけでは全てを切り抜けることができない。当時はアメリカなどからの露骨な日本いじめを受けて、今となっては反省すべきではあるがそれでも暴発せざる得ない状況に追い込まれたのも事実だからだ。
 結局のところは、世界であろうが私たちの生活を取り巻く社会であろうが、自分自身の努力も大切だし周囲との交渉も大切だという当たり前のことでしかない。自らの主張を通すためにはそれなりの努力が必要だし、それ以上に自己を改革して能力を高めることも必要だ。
 レイシズムは責任転嫁の典型である。私はどちらかといえば無秩序なグローバル化には反対の立場であるが、だからと言って日本が鎖国して成立できるような状況にはないのだから、世界との関係を維持することは避けては通れない。そのバランスを図ることは日本という国家の責任であり、日本国民に課せられた義務でもある。
 私は日本国民として、日本の寛容な文化を素晴らしいものだと思っている。「在特会」という存在にかけるとすれば、そのスタイルは中国や韓国と同じメンタリティ見えるという言葉であろうか。この言葉こそが彼らが最も嫌う言葉でもあろう。

 その上で、日本のメディアや一部の識者に言いたいのは内向的な反省は日本国民の美徳であるが、社会を俯瞰して見るべき識者は世界におけるその位置づけを冷静にとらえて言葉を発すべきではないかとも感じるのだ。単に掃いて捨てればよいわけではない。