Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

当たり前の話

「殴ってみろよ!」「傷ついた。死んでやる」 教師を挑発する生徒たち(http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130222/wlf13022210340004-n1.htm

 大阪市の高校生自殺に端を発して体罰問題がクローズアップされたわけだが、あたかもその結果を受けての反応の如くこのような報告が出てきているが、何も生徒が教師が手が出せないと思いつけ上がっているのは今に始まった話ではない。
 そもそも建前上は体罰は以前より禁止であった。それを必ずしも厳しく取り締まらなかったのは、体罰を行う側にもそれ相応の理由があったからである。建前上は体罰などない方が良いのは誰でも知っている。それ無しに教育が遂行できれば私も何も言う必要性を感じない。
 しかし、現実には教育現場はおそらくそんな甘いものでは無い。もちろん、荒廃した教育現場でも卓越した教育能力を発揮して生徒を指導できる教師も何人かはいるだろう。しかし、最も重要なのはその優れた能力を有する一部の教師を褒め称えたり、多くの教師にそこに至るように無言の強制を加えても、実際には全ての教師がそれを履行できることはあり得ない。
 今必要なのは、平均的な教師が指導をしていくための、具体的かつ的確な方法を見出し呈示することである。現状で理想論が前に出て、体罰禁止を言っているのは建前としては正しい。しかし、その理想論はいじめ禁止と同じように具体性のない空虚なかけ声に終わりはしないか。

 だからと言って、全て体罰を肯定すればいいと言うつもりはない。これまであまり大きく取り上げられていないが、教師による言葉の暴力の方がおそらく体罰よりもタチが悪いと私は思う。体罰は何とか耐えられても、言葉による脅しには耐えきれなくなりやすい。大阪の件でも、暴力的側面が非常にわかりやすいのでその点のみがクローズアップされてばかりだが、私にはそれが非常に偏った言論に見られる。
 本当に重要なのは、心理的に追い詰められた状況は暴力よりも言葉や態度のプレッシャーによるものでは無いかと感じているからだ。これが必ずしも正しいと言い切れる訳ではないが、心理的なプレッシャーのない体罰の方がまだ随分マシかもしれないと思うのだ。むしろ、一発殴られて後は遺恨無しの方がかえってすっきりすることもある。もちろん、大阪の件のように執拗に繰り返し暴力を振るったケースを良いとは思わないが、顧問擁護の声はこうした感覚の下で巻き起こっているのだろうと思う。
 暴力にしろ、心理的プレッシャーにしろ、それらは教育上の一種の取引(すなわち従属)を強要している。これは教育上認められる罰ではない。

 ところが大前提として持ち出した建前に囚われてしまった現状は、それを撤回できないからこそ迷走を始めている。「体罰は禁止」。この言葉は、生徒達に大きな武器を与える。もちろん彼らの浅はかな判断などは論評するにも値しないが、教育という一種の強制を伴う舞台において強制力をほとんど失ってしまえば、教師は裸の存在でしかない。
 先ほども書いたが、裸一貫でもやり遂げる豪傑は確かに存在する。しかし、多くの普通の先生は裸では何もできず受け身になり耐え続けることとなる。私は教師の倫理や給与面での厚遇は別途問題として指摘してきたが、しかし生徒に指導するための最低限の条件が整わない状態で、教育を進めろと押しつけられるのには同情を禁じ得ない。
 そして、体罰禁止の大前提に基づいて教師に武器を与えるとすれば、それは厳しい処分を生徒達に下すことしかあり得ないことにつながる。停学、出席停止に、留年から退学まで。あらゆるツールは既に準備されており、それは状況が整えば容易に使用される。しかし、それは果たしてそれは生徒達にとっても教師にとってもよりよい状況なのだろうか。

 批判も多いとは思うが、私はやはり限定的な条件を明確にした上で体罰は許容されるべきだと思う。それは暴力を容認するという方針ではない。あくまで生徒がより強固な処分を受けないための防波堤としての役割としてである。そして、それは感情にまかせた怒ることであってはならず、また教育上の交渉の手段であってもならない。あくまで教育の一環としての叱るという行為にのみに許される。
 もちろん、先生によっては体罰など行わないポリシーを持っている人も少なくないであろう。しかし、悪いことをした時にはきちんと叱られることも子供の頃に受けるべき教育の一つだと思うのだ。正しい体罰のあり方という教育普及を行っても良いではないか。それをタブー視した時に、私達は自由を失ってしまうのだから。