Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

生活保護は制限付き権利ではないか

お笑い芸人の家族に対する生活保護受給が大きな話題となっているが、個別問題についてはあまり興味があるわけではない。ここまで問題が広がったのだから仮に不正があるとすれば司法が動くだろうし、司法が動かないとすれば少なくとも法的には問題のある行為ではないことになる。
現状の法制度に不備があるとすれば今後国会での議論が進むだろうが、韓国のように法律の遡及適用を許すのであればともかく、法治国家である日本ではそんなことは許されるはずもない。法に不備があったとしても、問題がなければ罪に問われることはない。道義的責任については、本人も既に会見で認めており幾ばくかの返済を行う旨を明らかにしている。これについてもその履行が行われるかどうかはわからないが、法的に問題がなければあくまで道義的責任の範囲である。
ちなみに、4月に生活保護の取り下げを申請しそれでも1ヶ月問題なく生活できているとすれば、生活保護制度の趣旨からすれば疑問が残る部分もある。実質的な援助を含めて、このあたりについては徐々に明らかになっていくであろう。

ここではっきりとさせておきたいが、私は別に彼を擁護したいのではない。彼の言う「認識の甘さ」はおそらく制度に寄生しようとする社会を舐めた感覚でもあっただろうと想像する。その上で法的問題があるならば彼はその責任を受けなければならない。ただ、それでも社会全体が感情論で個人レベルの問題の道義的責任をどこまで追求できるのかということが少々気にかかる。
一部には、家族のことをネタにする芸人で実質的に公人だから問題追及されるのは当たり前という論調があるのは承知している。私も個人的な感情としてはそれに与したい気もするが、ここは明確に法的責任があるかどうかを冷静に確かめたい。今後、法的問題が現れればその点については追求されるのは当然だろうが、現時点ではそれを見極めることができない。逆にだから道義的責任を大上段に掲げて追及するというのは少々常軌を逸しているのではないかと感じるのである。
現実に、これだけ大きな問題となった彼は営業面で間違いなく大きなデメリットを受けるであろう。今後人気商売の彼の収入が大きく減ることは容易に予想できる。それは却って彼の母親の生活保護の固定化をより確実にする現象だとすれば笑うに笑えない。だから、私個人としてはリンチのような現状の追求を何処まで続けるのかには疑問を抱かざるにはいられない。彼がきちんと稼ぎ、その結果今後は母親の面倒をできる範囲で見ればよい話である。彼自身に浴びせられているバッシングは、生活保護制度全体に対する国民の問題意識総体となっており個人が受けるべきものを超えた状況にあるのではないかと感じる。現状では、粛々と法的な違反がなかったかを追及するのが筋だと思うのだ。
加えて気になるのは、この件をうけて生活保護の認定が厳しくなるであろうが、それが正当に受けるべき人を排除してしまうことがあるのではないかということである。こうしたものは基本的にずる賢い悪人の方が、おとなしい善人よりも上手く立ち回るものだ。

とは言え、生活保護の受給問題については現状の日本の状態を考えれば確かに考え直さなければならないのも事実である。そこには日本がかつての輝きを失ったという面が大きく関与する。かつての日本を基準に考えれば現状程度の生活保護費は当然と考えることもできるし、現状の経済状況が続くとすれば今の生活保護費は過大すぎるとなるわけだ。それは公務員給与と同じように相対的な問題であり、理想を言えば一般国民の所得が向上すれば問題にされるわけではない。それが当面成し得ないと考えられるからこそ問題となるのである。
その上で、経済的事情はあるもののそこに甘んじて生活保護を受けることを正当化する風潮が広がりすぎていることも、今回のような騒動を引き起こしている大きな原因である。

さて、生活保護を受けることは基本的には法律に求められた権利である。それ故に法律に違反しない範囲で有利にそれを得ようという行為は道義的には問題であっても、法的に不正と言える範囲が限定されてしまう。今回のケースが法的に何処まで不正が認定されるかはわからないが、今社会が気にしているのは合法だがずるい方法を用いて得をしている者を叩こうとするものだ。
ここにある心理は、基本的に生活保護とは一時的な救済措置であって恒久的な措置ではないという共通認識だと思う。それ故に、一時的な救済措置をずるいと考えるような方法で恒久的に受けようとする行為は、社会的な不正義であると認識していることなのだろう。要するに、生活保護を悪用してはならないという暗黙の共通認識を犯してはならないというコモンロー的な存在があるわけだ。実際には、随分昔からこの生活保護を巡る不信感は存在していた。その国民の間に溜まっていた鬱憤が大きく爆発しているのが現時点での感想である。外国人による不正受給の話が増えてきているのも、このコモンローを認識できないものであるという面も大きい。
さて、生活保護を推進する側はこの権利面を全面的に主張する。成文法的側面のみで言えばそれが間違っているわけではない。ただ、先ほども触れた暗黙の共通認識(コモンロー的側面)は生活保護を完全なる権利だとは認めていない。あくまで一時避難的な制度であって、それを権利として声高に主張することについての違和感を表明している。その違和感は法的な根拠を有しているわけではないために道義的問題を理由として大きく吹き出しているのであろう。このコモンローを無視するケースが頻発してきていることが今回の問題が広がりを見せている一番の理由だと感じる。
できることならば法の趣旨に鑑みて、単純な法的権利の主張と道義的な主張のせめぎ合いではなく、コモンローを反映した制限付き権利としての運用を可能とするような制度の再構築に向けての努力を国会はしていただきたいと思う。

「社会に頼っても良いが、社会に甘えてはならない。」