Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自由と責任

ユッケ、レバ刺し、こんにゃくゼリー。確かに、食中毒等の被害にあった方々は大変不幸なことだと思う。ではこれらの食品流通に規制をかけた方が良いのか。正確な情報を持っていないので私の勝手な思い込みかもしれないのだが、これらの食品での死亡者数は餅や生魚などにおけるそれよりも少ないのではないだろうか。同じ事を考えるなら、餅は1cm角以下とか、生牡蠣は提供できないとか、極論を言えば刺身は表面をあぶったものしか提供できない。。。なんて事になりかねない。
事例が違いすぎると言われるかも知れないが、毎年多くの人が犠牲になる自動車などはもっと危険なものではないか。これは規制しなくて良いのだろうかと言うことにもなる。もちろん、社会に及ぶ影響が小さいからと言うのはあるだろうが、それでは弱気をくじき強気に阿っている風ですらある。

食品関係ではなくとも、行政の安全対策などについても人を立ち入り禁止にしまくるという対策でお茶を濁す。海や池、場合によっては川も考え方からすれば全て危険な場所である。慣習的に自己責任が強うしてきた伝統的な場所は放置され、危険度はそれよりも低くても新しいものは制限される。対裁判という意味もあるだろうが、要するに人々にそれを公布するよりも楽だというのが全てなのだろうと思う。
民主党政権交代において「コンクリートから人へ」を強く掲げた。正直言って扇動的で中身のない文句だとは思うが、ハードからソフトへと考えるならば意義はある。全てに行政が最終的な責任を負うのではなく、責任を国民が共に負う。それも「コンクリートから人へ」に含まれていると考えるのはおかしくない。もちろん、幼い子供達の安全性を担保することは当然重要だ。ただ、小学校中学年以上にまで幼児のような扱いをしなければならない流れには違和感を感じるのだ。
もちろん、不幸な事故で子供を亡くした親の悲しみを切って捨てろと言うつもりはない。それでも、誰にも押しつけられない悲しみの発散場所を最後に行政に押しつける。その場の一例としては許容されるかも知れないが、結果的により多くを縛ってしまう可能性がある。あくまで程度問題ではあるが、極端な行政責任論は抑制されるべきではないかと思うのだ。なぜなら、それが結果的に私達の自由をも奪いかねないからである。

考えてみれば、本来は危険性をきちんと広報する方が重要であって、危険から人を隔離するのは下策ではないかと思う。もちろん周知の徹底が困難であるが故のそれなのだが、結果的には目先の楽を取ることで私達の裁量自体を減じることとなる。世の中には似たような危険など掃いて捨てるほど存在する。それを減らすべく努力することは悪くはないものの、だからといって規制で全て危険を排除できることなど無い。
そして、自由には責任を伴う。その責任を行政に転嫁すればするほど、最終的には自由を失っていく。それは、行政も責任を負担しきれないので逆に自己責任に振り分けるなどの方向に舵を切ることになるのだ。かつて以下のようなエントリを書いた(自由と孤独:http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20111010/1318177989)。自由には責任が付きまとうと共に、個人的に突出した自由を得ようとすればそれは孤独を生むと書いた。
私達は、個々がどこまで責任を負う社会を作るのか考える必要があるのかも知れない。

「極論を言う必要はない。行政と個人の責任分担をもう一度考え直そうというものである。」