Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

皮相な愛情の流行

DQNネーム(キラキラネーム)の話題は毎年の恒例行事のように登場するが、事の真相は不明ながらもDQNネームの子供の大学進学率が低いという記事をちらっと見かけた。先日もタトゥーについてもエントリを上げたが、そこで家族に対する愛情表現としてのタトゥーについて私は必ずしも否定的に捉える事はないと取り上げた。もちろん十分な覚悟を考えての話である。本当に覚悟があるならば、プールに行けないなどと言う軟弱な文句を言えるはずもない。

ただ、世の中に溢れる情報には見ていて悲しくなるようなものも多い。もちろん極端なものだからこそ取り上げられ広められるという面があるのは承知している。それでも極端な情報に頻繁に接すると、やはり暗澹たる気持ちに覆われてしまうのも事実なのだ。
DQNネームでもタトゥーでもそうなのだが、自己愛を家族愛と勘違いしていないか。この場合、家族愛と自分で認識していてもそれは家族を愛している姿を通じて自分を愛しているのである。自己表現として家族を利用していると言っても良い。特に利用されるのは子供達になる。
そこで問題となるのが愛情についての認識であろう。単純に好き嫌いの好きを愛情と考え、仲良く楽しく過ごすことが愛情だと勘違いはしていないだろうか。もちろん、既に社会との深い節点を有した大人の男女が二人の間のみで好き嫌いの愛情物語を繰り広げたとしてもそこに突っ込むつもりはない。ただ、単なる好き嫌いを越えて子供の成長を見守りサポートするのも愛情だとすれば、認識は大きく変わっていくはずである。

愛情とは、押しつけるべきものではない。愛情はお互いの関係に中において作り上げていくものである。しかし、現実には自らの理想を愛情として押しつけているようなケースによく出くわす。「こんなに愛情を注いでいるというのに」なんて台詞は安っぽいドラマに出てきそうであるが、現実にもよく見られる出来事だと思う。愛がねじ曲げられて押しつけになっている。子供が幼い頃にはそんな偏った愛情であっても素直に受け止めるかも知れない。
その押しつけは、学習や習い事、生活習慣などだけではない。自由がよいと放任することも価値観の押しつけである。
しかし、その押しつけられた愛情により子供達は何を得るのであろう。

要するに、愛情を注ぐ側が時と場合に応じた愛情を注ぐのではなく、愛情というイメージを皮相的に続けているのではないだろうか。それは、あたかも愛情ゲームという伝言ゲームを繰り返しているが如くに。
もちろん、その押しつけられた愛情に下でも立派な大人になっていく子供はいるだろう。しかし、本来は子供達が成長して行くに必要なことを適宜習得させていくことが重要なはずである。与えるのではなく、得させること。
それは子供に対して柔軟な態度で接し、逐一変わる状況に応じたきめ細かな対応が必要とされる。それは面倒で、大変なことでもある。皮相的な愛情とは、この困難さを避けるが如くいくつかの愛情の形を真似ているに過ぎない。だから、その愛情が少し上手く受け止められなければパニックに陥ったり、子供に対する愛情を急になくしたりということになってしまいがちだ。

皮相的な愛情は虚飾のごとき存在でしかない。一見は幸福そうな姿を世の中に示すかもしれないが、実態はその家族の腹の底にある。その疑心暗鬼があるからこそ、ますます世にアピールを重ねようとするのであろうか。

「素朴が貴ばれる時代が近づいているようにも思える。」