Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

バカを貫け

バカというニュアンスの関東と関西の違いについては様々なところで言われており、関西ではアホの方が近いイメージあろうが、ここではバカで統一して書いてみたい。
「バカ正直」という言葉があるように、バカのイメージの中にはデメリットを考えずに愚直に進む姿勢も込められている。もちろんその愚かさは周囲から見れば自明のものであり、容易にそれを実現できる方法があるにもかかわらず、あるいは無駄な努力であるとわかりきっているのに、チャレンジを付けているという意味ではスマートではないし、無駄な努力を行っていることになる。
以前にも「無駄」には意味があると書いたことがあるが、今回のバカにも同じようなことが言える。間違ってはならないが、何でもバカが良いというわけではない。この馬鹿さには、鈍感さという要因が含まれている。上述のように、他に良い方法があるにもかかわらずそれを見付けられない、常識的に考えれば成功しないと言うことが明らかにもかかわらずそれを止められない。これは、感覚的なもの、配慮的なもの、気配り的なもの、何でも良いのだがそこに神経が行き届いていない。要するに鈍いのだ。

人生の多くの場面において鈍さは嘲笑の的となる。「愚図でのろま」は随分昔のドラマのフレーズであったが、集団の平均よりも劣っている場合には皆がそれを意識するし、場合によってはいじめの原因となることもあるだろう。同じ鈍さとは言っても、行動や思考の鈍さすなわち瞬時の反応の鈍さと、痛みや苦しみに対する鈍さは異なる。ここで言いたい鈍さは、痛さや苦しみに対する鈍感さである。
「バカ」と、ある意味親しみを込めて言われるのは痛みや苦しみに対する鈍さのことが多いように思う。基本的には俊敏な人は痛さや苦しみに対して抵抗力が弱いことが多い。俊敏であると言うことは、周囲の状況を事細かに把握・分析していることでもある。だからこそ、何か小さな兆候も逃さず捉えて素早く動くことができる。それでも大きな抵抗に果敢にチャレンジを続けることができる人もいるだろうが、精神的にはストレスを溜め込みやすくなりやすい。実際社会人になれば「できる人」と呼ばれるのはこうした人の場合が多い。
一方で、動きが鈍いからと言って精神的にも鈍感であるとは限らないのも事実である。精神的に脆ければ、やはりストレスを溜めることになるだろう。
すなわち理想的に言えば、反応は俊敏に心理的な負荷には鈍感にが望まれるところであるのだ。周囲には敏感に、しかし自分の痛みにはできれば鈍感である。これはなかなか難しい。何せいいとこ取りなのだから。

ただ、自己に関わることは心理面である。ストレスとは外傷ではなく心に負う傷である。ストレスに強くなると言うことは、要するに自分に対して「バカ」になれるかと言うことではないだろうか。多くの場合には賢い自分を外に見せようとして、自分自身が優れていることをまず自分自身に思い込ませる。そしてそれを行動として表すことで自己の能力をアピールするものである。だからこそ、まず最初に自らが自分自身に対してセンシティブであろうとするのだ。
バカであることは、即ち自らをひけらかすわけではないことである。自らを飾り立てるというところに気を回していないからこそ、そして周囲からの評価を気にしていないからこその馬鹿さ加減なのである。もちろんそれは賢い生き方ではない。不利益もいろいろとあるだろう。それでも、バカなまでの真っ直ぐさは何かを成し遂げる可能性も秘めている。

自らをスマートに見せない。単にそれだけであれば野暮なヤツと言われて終わりだろうが、それが何かを成し遂げるための鈍感さであるならば期待したくなるものでもある。もっとも、現総理のようにバカを装う者も、元総理のようにバカで節操のない者もいるのでなかなか難しい。

「今の時代に不足しているのは、見せかけではないバカを貫く気持ちかも知れない。」