Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

つじつま合わせ

ここにきて、地震被害想定が大きく改められつつある。南海沖など3地震連動時の津波の想定高さは倍以上に引き上げられそうである。ニュースではこれらの変更に自治体の対応は右往左往しているらしい。まあ考えてみれば当たり前の話で、いきなり想定値が倍になりますと言われて対応できるはずもない。あるいは、新たな巨大断層が発見され未発見のM8〜9クラスの震源域が報じられる。若しくは首都直下地震の発生確率が今後40年で70%などと怖い話もある。

正直な感想を言えば、東日本大震災を読み切れなかった学術界が一気に想定を引き上げることで自己防衛しようとしていると思った。このような行動が出てくることは予想できたことではあるものの、それぞれが皆同じ方向の行動を取ることで全体としての流れが極端に走りすぎていると感じるのである。実を言えば同じような状況はそこかしこで見られる。小泉時代郵政選挙もそうであれば、リーマンショック時のパニックもそうだし、民主党による政権交代も、あるいは原発事故後に見られる一種ヒステリー的な反原発運動もしかりである。
個々の行動は小さなものかも知れないが、そのベクトルが全て同じ方向を向いた時に予想だにしない大きなうねりが生じてしまうのだ。

建前上、安全な方がよいことは反論を許さない正論である。ただ、安全と言ってもその安全の中にも様々な程度の違いが存在する。例えば安全という特定の一要素を大きく追求すれば、おそらくそれ以外の何かの場面において別のデメリットを甘受しなければならない。
要するに物事は、得られるメリットと失うデメリットのバランスで判断されるべきものなのである。例えば最大級の地震についても、想定されうるそれは調査を行えば行うほど、あるいは稀少な可能性を重ね合わせるほどに大きくなって行くのは間違いないであろう。
ただ、その厄災(例えば地震)の再現期間と規模の両者を考えなければ、メリットとデメリットを比較することは叶わない。最大限の可能性を予測することにも確かに大きな意義はある。ただ、それが判断基準の全てを支配することはない。果たして、今出てきている様々な新しい知見や被害予測は、私達が地震被害や津波被害に見舞われる確率を上昇させているのであろうか。

もちろん、津波の予測が甘かったことは見直されなければならないであろう。少なくとも既存の原子力発電所におけるそれは大幅に見直されるのは間違いない。しかし、これも原発の問題のデメリットを私達が過小に評価していた結果だと言うことであって、そのリスク評価に変な政治的思惑を加えるべきでないという極めて真っ当な状況に戻すと言うことである。
人は一時的に受けた衝撃が大きいと、逆にも大きく触れて心理的なバランスを取ろうとする。しかし、それは歪みを逆の歪みで覆い隠そうとするものであって正常な状況ではない。時が忘れさせると言うが、おそらく現状でも話題に上がる関東圏からの放射能を避けての引っ越しなども、数年後には笑い話になっているのではないだろうか。

おそらく、私達が地震の多い日本列島で地震津波の被害を受ける確率はほとんど変わらない。あるいは多少変わったとしても、それが直接個人の生活を大きく変えるものとはならない。ただ、私達の受け止め方が変わったのみである。
地震予知が困難であることは広く知られつつあるが、仮に1日前にその予知ができても取れる対応は心構え程度しか行えまい。逆に30年スパンでの確率を聞かされてもこれまたできることを粛々と進める他はない。
杞憂とは言わないが、必要なことをきちんと見定めてそれを忘れずに行う。できることなどたかだか知れているが、それでも打てる手は社会のバランスを崩さない範囲で進めていく。それだけなのだと思う。それを危険性が上昇したと騒ぎ立てても不安を煽る以外には何も変わることは無い。

科学で私達は新たな知見を得る。それは技術に生かされ生活を豊かにする。しかし、自然の活動を予測した結果は私達を豊かにするのではなく、私達に一定の覚悟をさせるための情報となる。情報を得たものがすべきことは、不安を煽るのでもなく安全をふれ回るのでもない。必要な覚悟をできる限り正確な知見を元に知らしめる。
意外とその程度にしか役立たないものではないだろうか。

「ネットなど情報ツールの発達は、多彩な意見を拾い上げているように見えて、盲目的な情動に今まで以上の力を与えているのかも知れない。」