Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

隠喩不毛社会

先日もJ-POPの歌詞が同じパターンの使い回しであるという記事について書いたが、そこで感じたことは比喩の種類が直喩に偏り始めているのかも知れないと言うものであった。文学の世界でそれが廃るというところまで来ているわけではないだろうが、少なくとも一部のJ-POP歌詞の中では希薄になりつつあるのかも知れない。

一時、政治の世界だけでなくあらゆるところで説明責任(アカウンタビリティー)の必要性が叫ばれ、その結果として多くのわかりやすい説明が為されるようになった。わかりやすさは分野や専門性・伝統にあまり関わらず横並びで評価され、それがわかりにくいと決めつけられれば下手すると歴史的な標記すら変えられようとする。わかりやすいことは便利さにとっては重要ではあるが、便利さが世の中の唯一の尺度でもあるまい。
ただ、こうした社会的な動向は「わかりやすい事が良い事である」といった漠然とした雰囲気を社会に大きく広げてしまった。わかりやすいということは、同時に単純であるということでもある。わかりやすい記載に慣れてしまい、わかりやすいことが人気を博すようになり、さらには文字のわかりやすさではなく感覚的なわかりやすさがユニバーサルデザインとして導入される。
繰り返しになるがわかりやすい事が全て悪いわけではない。むしろ多くの場面ではその利便性が社会において大きく貢献するだろう。ただその状態が生活において普通になってしまったとき、もはや容易に元には戻れないし、難しい事を無意識のうちに避け始めるという事も起こりかねないと懸念してしまう。

例えば体に障害を負った方々のための職業訓練校などでは、施設内にわざと段差を設けている。段差を解消したバリアフレー住宅で育った子供達は、慣れていないが故に躓き転びやすい。それは、便利なことが普通になりすぎると私達の身体機能も感性も、そして根気も退化する事を示している。

隠喩は一種の知的な言葉の遊びである。一定の決まり事を知らなければ、その意味するものがわかりはしない。わかりやすさでと言う意味では決してわかりやすくはない。そんな遊びができるというのは、人々の心にゆとりがある証拠でもある。他に楽しみが少ないという環境の問題もあるだろうが、だからと言って心に余裕がない状態でしゃれた言葉などそうそう使えはしないであろう。
現代は物質的には豊かになったが、心にゆとりが無くなった。だからこそ、複雑なやりとりよりは単純かつわかりやすい物事が好まれるようになる。社会が複雑になったからではなく、複雑な社会に耐えられなくなったからかもしれない。
個人個人にゆとりが無くなると、社会全体も何か落ち着かない雰囲気になる。心にゆとりがあれば少々のアクシデントやトラブルにも時間をかけて冷静に対処できるであろうが、それがなくなれば結論を急ぐことになる。人間が絡む出来事は急いだからといって、上手く進むとは限らない。私達は、答えを得ることを急ぎすぎているのではないだろうか。
そして社会から徐々に複雑なもの、ひねりの利いたものがじわじわと減っていく。極端に失われるのではない。道端の水たまりが徐々に乾いていくように、気づいた時には社会のゆとりが削られているのである。

もちろん、ひねりのない社会は人々にとって凡庸きわまりない退屈なものでもある。だから、粋な言葉の使い回しよりインパクトのある強烈でわかりやすいメッセージが別の刺激として求められているように感じる。幅ではなく強さが求められ、人々の感覚が徐々に麻痺していく。
何か少し面白くない。

「本当にわかりやすいものは、十分に意味が咀嚼されたものである。わかったように思わせるそれが広がっているようにも感じられる。」