Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

以心伝心とマンネリズム

目で合図する。
あるいは、空気を読む。
阿吽の呼吸。

以心伝心を語る言葉はいろいろと存在する。
それは、言葉にしなくても理解できるということ。
わざわざ説明しなくとも気持ちが通じるとすれば、それは素晴らしいことのように思える。
でも、ホントにそうなのだろうか?

以心伝心と言っても、考えていることが伝わっているわけではない。
過去の経験から、おそらくこう考えているであろうと言うことを類推しているのだ。
経験が豊富であればあるほど、その類推は正しい結果を導く。
あるいは、お互いに多くの近しい知識を有しているほどに、同じ判断を得ることになる。

だから、以心伝心という状況ができるということは、同様の知識、同様の経験、同様の思考形式を保有していると言うことである。それは、普段の生活や仕事を進める上では、非常に都合がよい。
無駄な考え方の摺り合わせなど必要ないのだから。
しかし、逆に言えば以心伝心は基本的事項あるいはルーチンワークにしか使えない。
イレギュラーに対しては、伝わらない可能性が高まるのである。

もちろん、少々のイレギュラーにも対応できるほど考え方がわかる関係もあるだろう。
それは、以心伝心という意味においては確かに有効である。
しかし、常に変化する問題を取り扱う場合には、汎用性に劣ってしまう。
要するに以心伝心というのは、行動の特化なのだ。
特化すればするほど、選択肢が減っていき判断基準が明確になる。
だから、専門化が進めば進むほどに以心伝心が容易になる。
あるいは、すべきことが限定されるほどにわかりやすくなるのである。

それ故、ルーチンワークの場合には以心伝心は発揮しやすい。
そのルーチンが少なければ少ないほど確実性が増す。
ルーチンが増えても処理ができるかどうかは、個人の能力に依存する。
より多くのルーチンを想定できるかどうかである。

逆に自由な発想を求めるような場所では、以心伝心など容易には起こりえない。
偶然の産物として続くこともあるかもしれないが、確実性の低いそれは以心伝心と言えるものではない。
揺するに、以心伝心は専門性が高いルーチンワークにおいて効果を発揮する。

ところで、私達の生活を考えてみると実のところその大部分はルーチンワークであり、似たようなタスクの繰り返しである。だとすれば、その処理能力を非常に高めた状況下では以心伝心は容易に存在しうる。
ただ、それは一定の技術を突き詰めることの極限に位置する。
同じことを繰り返すことは、別の言葉でマンネリと言われることもある。どちらかと言えば、否定的な意味合いでもあるが、形式主義とも訳される。
もちろん以心伝心がマンネリの延長にあるとは思えないが、マンネリに陥りかねないほどの繰り返しがその醸成には必要だろう。実のところ、その差はワークに価値を見いだせるかどうかの違いだけなのかもしれない。

さて、夫婦や恋人間のそれはマンネリズムの極致なのか、それとも愛情の到達点なのか。
どちらでもありそうで興味深い。

「情報が氾濫する現代社会、マンネリズムに陥ることさえ容易ではない。そこに至る前に多くは淘汰されてしまう。」