Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

嘘と夢は紙一重

嘘も方便とは良く言われる。
嘘にも、軽い嘘もあれば、深刻な嘘もある。
嘘にも、ついて良い嘘と、ついてはまずい嘘がある。
もちろん、嘘など一度もついたことがないというような清廉潔白な人もいるだろう。
でも、おそらく彼は嘘つきである。

嘘とは何なのか?
作り話である。
夢も、実現しなければ嘘だ。
嘘も言い方を変えれば、期日が来るまでは夢になる。

だとすれば、夢と嘘の違いは何なのだ?
そこには、最初から他人を騙そうとした意思があったのかどうか?
重大な違いではあるが、それだけの違いしか無いとも言えなくはない。
相手を騙そうとしないで言った言葉は「夢」で、相手を騙そうとしていった言葉は「嘘」なのだ。

さて、騙そうとしたのかしていないのか?
それは、その言葉を発した本人にしかわからない。
客観的事実が、それを傍証することはある。
それでも、真実は当の本人の心の中にしか存在しない。

他人からは決して真実を確認できないものなのである。
もちろん、本人が「夢」と言い張っても社会的に「嘘」と認定されることはある。
それは、事実が確認されたわけではなく、社会的にそう決めつけたに過ぎない。
そのように見なしたのだ。

それでも社会では、夢は持ちたいもの、嘘はついてはいけないものという明確な道徳心がある。
本人の考え方を縛るだけしかないそれではあるが、社会を円滑に運営する上では重要な要素なのだと認識されている証左でもあろう。

考えてみれば、これほど曖昧なのに通用しているというのも興味深い。


作ったストーリーが明らかに嘘だと見えても、それを信じる人がいる。
それを信じている間は、それは嘘ではなく夢なのである。
詐欺師は、夢を共有させる。
もちろん、それが実現する(はずの時期)までの話である。


明らかに嘘とわかる夢があった。
それは、過去の事実に対する夢。
これだけは、事実をもとに嘘であると追求することが不可能ではない。

しかしそれでさえ、証拠が残っていなければ嘘をつきとおされることもある。
日中・日韓の歴史認識問題を考えてみればよい。



明らかに嘘だろうと思われる夢であっても、実害がないものに関しては社会的には比較的寛容だ。
他人に迷惑をかけない限りは、それは「ホラ」という言葉で表される。
嘘よりは、明らかに糾弾するニュアンスが低い。

他人に大きく迷惑をかけるものでなければ、社会において嘘は意外と許容されているかもしれない。

「夢は活力の源である。嘘も時には同じ効果を発揮する。ただ、嘘はその責任を後で果たさなければならない。世の中の嘘つきは、最後の責任を果たさない存在である。」