Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人に教えるのは、自らが学ぶこと

人に教えると言うことについて考えてみる。

まず、人の教えることそのものは上辺の知識さえあれば誰にでも出来る。
それは誰もが知っていて、その上でより理解しやすく教えるための方法論を説いている。
しかし、教える側のみの論理で全てを説明しようとしても寸足らずだ。

本来、教えるという行為は、教わる人間と教える人間の二者により成立する。
教わる側に教わる気がなければ、どれだけ懇切丁寧な教え方をしても何も成果を得ることはない。同様に、教わる側にやる気があっても教える側に能力がなければ余分な時間を費やしてしまう。

だから、まず一番最初に必要なのは、両者が共にそれを望むことである。
当たり前のことではあるが、それがなければ何も始まらない。
そして、教える側は教える前にその状況を作り出す努力が必要となる。

教えられる側が、その気にならなければ教える能力が如何に高くとも効果は著しく低下する。
逆に、教わる側がその気になりさえすれば、拙い教え方でも一定以上の成果は上がるものである。
特に、学校の学習などでは教材も豊富である。教え方の拙さもそれらを活用すれば容易に補完しうる。

教えるための技術論がまず語られるが、その価値は思うほど高くないのである。いや、それはファーストステップではなくセカンドステップでしかない。

だとすれば、相手が如何にすれば教わりたいと思うか、、、、その点については、教える側が学ぶべき点なのだ。教えるのだという高みに自らの心を置いたとしても、技術論の役割などたかがしれている。動機付けが決定的な部分を左右する。

もちろん、ケースによっては異なる。
一人で多人数に教える場合には、そこまで多人数の心を上手く乗せるのは容易ではない。
その場合には、最初のアプローチである動機付けを省略せざるを得ないこともあろう。
学校教師であれば、その長い教育時間を利用してなるべく個々にアプローチすることが出来るであろうし、セミナー講師などでは最初からお金を払ってくるわけであるので動機付けはあると仮定して進めることになる。

ただ、最初の動機付けはおそらく学習効果に多大な影響を与えることについては間違いない。
どんな形であっても、それを確保できなければ教えるという行為は失敗に終わると思って良い。


セカンドステップのテクニックにおいても、実を言うとモチベーションを保つための行為が意外と重要である。結局、教えるとは言ってもそれは学ぶ行為をサポートするというのが実態なのだ。

そう考えてみると、「教える」などと高い立場で物事を考えること自体がおこがましいのだなと思えてくるから不思議だ。教えると言うことは、教わりたくさせること。学びたいという意欲を伸ばすこと。

それは、自己治癒能力を高めることで自らの怪我を治すのと似た感覚。
本人に備わっている力をきちんと発揮させる行為に等しい。
だとすれば教える側がすべきこと、それは相手についてきちんと把握すること。教わる側について学ぶことなのである。

そのことさえ理解していれば、人に教えることはそれほど難しいことではない。
もちろん、そのためには相手を信用しなければならない。
それは、容易なことではないのだが、教える側が信用しなければ、教わる側は信用しない。信用しなければ、学ぶための舞台が構築できないのである。
・・・それは、強制的に教える場合でも変わることではない。

「草花を引っ張っても成長しない。適切な水と肥料と日光を与えることが必要である。人も同じで、環境を整えなければ育つものも育ち得ない。」