Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自動翻訳の時代

 少し前にウエアラブル翻訳機のili(イリー:http://iamili.com/ja/)が発表された。どの様なものかはサイトやニュースを見ていただきたいし、現時点で実用にどこまで耐え得るかは未知数だが、即時翻訳可能な機器が登場したことについては非常大きな意義を有していると思う。スタートは英語・中国語・日本語の対応ではあるが、その後も対応言語は増えていくようである(http://robotstart.info/2017/01/31/ili-press.html)。今年の6月から法人向けサービスが開始されるそうだが、その後も性能向上が図られれば外国語を話せなくともコミュニケ―ションが可能になる時代は近いかもしれない。
 最近は、グーグル翻訳もディープラーニングの成果か翻訳精度が飛躍的に高まりつつある。ほんの数年前には、翻訳はしてくれるがよくわからない文章で全面的に手直しを必要とするため、「役に立たないなあ(実際にはそれでも役には立っている)」といったレベルであったものが格段の進歩を遂げている。
 おそらく数年後には、かなり多くの言語同士の基本的な自動翻訳は実現するのではないか。もちろん、言語は非常に複雑であり、深い部分でのコミュニケーションを行う場合にはこのような機器では十分でない。専門用語や俗語などについては、容易に対応できない可能性も高い。だが、基礎的な部分が一気に飛び越えられるとすれば、これまでとは全く異なったやり取りが可能になるであろう。

 機械や電子頭脳(AI)が発展することにより、様々な仕事が取って代わられることについては既に数多くの人が警告し、想像し、問題にされてきている。そこで失われるのはホワイトカラーと呼称される人たちも多く含まれており、全てを取っては変わられなくとも業務の大部分を肩代わりされるのではないかと、弁護士や医師までが対象とされているのはメディアが既に取り上げている。
 教師はまだ取って代わられる存在としての上位にはいないようだが、これも教育方法の変化によっては絶対的なものとは言えない。そして、人々は今までとは異なる仕事を探し回ることになる。もちろん、新たな仕事は生まれてくるであろう。ただ、それが十分な報酬を得られるものになるかどうかは別問題であるが。

 さて、話を元に戻す。自動翻訳の普及は私たちの生活をどう変えるであろうか。まだ、音声レベルのみの対応イメージであるが、そう遠くない時期に今度は目に飛び込んでくる言葉も自動的に翻訳してくれる眼鏡が生まれても不思議ではない。OCR(光学文字認識https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%AD%97%E8%AA%8D%E8%AD%98)等の発展も同様にかなり進んでいるため、技術を生み出すための基礎的な部分は満たされている。
 イヤホン型で、耳に入ってくる言葉を自動的に翻訳してくれる機器もそのうち生まれてくるかもしれない。昔のSFの世界ではないが、こうした機能を一つにしてコミュニケーションをサポートしてくれるサポート機器が生まれるということもあろう。
 そうなれば、多少のタイムラグはあっても世界中のコミュニケーションは大きく変化するだろう。一つには、言葉ではない文化や風習の違いによる問題が今以上にクローズアップされてくること。言語的な障壁があったからこそ違いがダイレクトにコミュニケーション障害を引き起こさなかったものが、壁が取り除かれることでその問題に直面せざるを得なくなることがある。
 要するに、私たちが学ぶものは言語そのものではなく文化や風習に変化していく。言葉を教えていた人たちは、民族や国ごとに違う仕来たりや作法を他の人たちに伝え始める。それらについても基本的な部分は危機がフォローすることから、マイナーでかつこれまではそれほど問題とされてこなかったようなものが取り上げられ始める。
 そのことは、言語という違いが取り払われると自分たちのアイデンティティを今まで以上に認識し始めることからも生じるのだと思う。オリジナルな部分をどれだけ見せられるのか。文化伝道師がそこを目指さなくとも、世界は今まで以上に独自性を求め始めると考える。

 言葉が分かるから今までより相手のことを理解できる。だが、理解できるからと言って相手に自分の方から歩み寄る訳ではない。外国人とのコミュニケーションを行う場合には、自分の国の特色や歴史・文化を知っていることが重要とはよく聞く話である。まずはお互いのバックボーンを理解する。そこからようやく交渉が始まる。
 問題は、交渉したい、分かり合いたいという強い動機を持っている者にとっては、言語の壁が取り払われることに意義があるが、その意思を持たないものにとっては何も変わらないということである。そして、多くのマジョリティは自分たちの現状を維持することが最優先なのだ。他者(特に文化の異なる人たちに)に歩み寄るべき動機を有していない。自動翻訳により意図せず近付けば、離れるための理由を探すことすらあるだろう。

 独自性を求めるということは、言葉や宗教以外にも排他的になりやすいということがある。既に世界中で移民反対運動が大きな力を持ちつつあるが、それは自分たちや自分の国のアイデンティティを脅かされているという切実な願いが根底に存在することがあるだろう。それは移民によりできた国であっても同じことで、徐々に変わるものは許容できても急激なそれは認められない。
 人々はかつて代わり合えれば一緒にやれると夢を見てきた。だが、それは言葉が通じるということだけでは不足である。価値観をある程度同じにしなければそれは成立しない。その価値観の寄り添いが、自動翻訳の普及によりもし遅れるとすれば皮肉なことかもしれない。