Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

壊すことと創ること

 世の中で血気盛んに大きなことを言う人の大部分は、自らがシステムなり組織なりあるいは概念なりを創ることに携わっていない。私もここでいろいろなことを勝手に書き連ねているが、評論家というものは得てして無責任なものである。全てがそうとは言わないが、自らは責任を取らなければならないポジションを回避しつつ他者の責任を声高に追及するケースは鼻につきやすい。
 一部の強烈な個性を発揮する評論家や言論人が一定の支持を得る理由は、一つにモノが言えない多くの人々の心を代弁している面があると言える。加えて、人々が知らなかった新しい情報を巧みに駆使して説明する能力に説得力を感じられるという面もある。ただ、テレビ的な目新しさや新鮮さのみが評論家を評価するポイントであるとすれば、それはとてもではないが健全な事とは言えない。
 もちろん評論家の全てが非建設的ではないと思うし、誰もが批判しない社会が健全でないことには同意するが、一方で批判が全てを覆い尽くす世界もそれ以上に異様である。できることなら、私は批判を受けながらも常に創っていく社会に身を置いていたいと切に願う。

 昨日、大阪都構想(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E9%83%BD%E6%A7%8B%E6%83%B3)の是非を問う住民投票が実施され、僅差で橋下市長が推してきた構想が否決された。事前の報道では大差で反対派が勝つという予想もあったようだが、どちらにしても結果は既に出た。これに関して、シルバーデモクラシー(http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%EB%A5%D0%A1%BC%A5%C7%A5%E2%A5%AF%A5%E9%A5%B7%A1%BC)であるかどうかの議論(http://agora-web.jp/archives/1642119.htmlhttp://agora-web.jp/archives/1642136.html)も生まれているようだが、私はそれを定義づけることについてはあまり興味はない。
 以前より選挙結果が高齢者の投票行動に大きく左右されていたのは知られていることだし、若者たちの投票率が低迷しているのも今さら取り立てて言うことでもない。いつの時点でそれが完成されたかは明確に捉えることができるものではないが、その傾向が現れているのは間違いないであろう。

 さて、私個人としては「大阪都構想」については正直なところ不勉強であり、良いとも悪いとも判断できていない。ただ、大阪市の公務員不祥事がとんでもなく酷いものであったこと(http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20150512/1431405330)は今でも記憶しており、改革が必要なことは間違いないと思う。問題解決を既存の枠組みの中での改革により可能かと問われれば、建前上では可能かもしれないが実効性にはかなり疑問を抱かざるを得ない。要するに、よほどの荒治療でもしない限り変化できるとは思っていないのである。
 だからと言って大阪都構想が理想的なそれなのかと言われると、橋下氏のこれまでの強引な手法を見ていると小泉総理時代の郵政民営化(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E6%94%BF%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%8C%96)にかなり雰囲気が似ているように感じている。繰り返しになるが、大阪都構想に対する私の認識は甚だ不十分なものであるのでここでは是非を主張できるようなものは何もなく、あくまで個人的な感想を述べているに過ぎない。

 今回のエントリは大阪都構想の是非を問うものではなく、モノを創り上げることと壊すことの関係について触れてみたいと思ったことがある。その事例として、大阪都構想を巡る議論は非常に適しているのではないかと考えた。大阪都構想に関するざっくりとした私の感想は、「既得権益と打破」、「勢い・乱暴さと説得」の2つの側面が多い気になったと言える。何度も繰り返して恐縮だが、どちらが良いという判断を私はできるほどの知識を持ち合わせていない。
 まず、大阪都を設置することでどんなメリットがあるかは正直未知数であると思う。ただ、そのことを不安に思う人が少なくないことが今回の結果を生み出した代々の要因ではないかと推測している。既得権益層が大いに気勢を上げていたのはその通りではあるが、地方選挙・国政選挙でかなりの勢いを誇っていた橋下市長が推しているにしては、大阪市民の反応が明確には見えなかった。
 賛成は「兎にも角にも変えてみよう、変えなければ何も始まらない」というものが多く、反対も「どうなるか不安がある、変えるメリットがどこにあるのか」という内容だとすれば、賛否は異なるが同じ方向性の反応であったと言えなくはない。

 実は、モノを創り上げるというのは勢いも大切ではあるが、それと同時に何度もチャレンジし続ける粘りがさらに重要な要素となる。むしろ、モノを壊す時の方が勢いにウエイトを置くべきであろう。ところが、橋下市長の戦略はどちらかと言えば市役所組合などとの争いと同様に勢いを見せつけることで押し切ろうとした感じが強い。粘りよりはむしろ潔すぎるほどの態度が目立っている。
 若者たちへの訴求力に関して言えば、確かに一時的な勢いの方が効果が高いであろうが、高齢者に関しては同じ主張を行うにしても時間をかけて繰り返すことが求められる。ここに強すぎる橋下氏のポリシーが反映されており、結果的に個人としての矜持を貫いたが押し切る粘りまでは持てなかったと言えるのではないか。
 例えば、大阪都構想が万難を排しても推し進めるべき内容であったとすれば、今回の否決が全ての終わりにつながるものではないし、むしろそうであってはならない。まず最初に、動かすことから始めようとしたからこそこの結果を受け入れられると私などは考えてしまう。

 橋下氏の心の内は私などが推し量れるようなものではないだろうが、新たな何かを創り出す強烈な強さを有する存在として非常に興味深かった橋下市長が、結果的には壊し屋で終わってしまったように見えるのが少々口惜しい。
 さて、大阪都構想はとりあえず今回挫折した。橋下氏という推進力を失えば、それを引き継げる人はいないであろうし、逆にそれがあったからこそまだ不完全な内容でもここまで持ってくることができたのだと思う。私は、大阪都構想そのものを強く推せるほどの考えはないものの、強烈な何かが無ければ大阪の地盤沈下を取り戻せないとも思っている。
 新たな大阪を創ること言うことは部分を捉えれば間違いなく既存の体制を壊すことでもあり、その上で皆に前向きな心を受け付けることである。大阪都構想が正解であったかどうかはわからないが、一歩踏み出すきっかけを失ったとすれば大阪にとっては大きな失策であると思う。

 今を守ることは最も賛同を得やすく、壊すことは勢いがあれば為し得る。ただし、創ることは生半可な態度では覚束ない。御用学者と呼称されるような人たちは守る存在であり、批判で世の中を盛り上げる人たちはどちらかと言えば壊す人に近い。創る人としては企業創業者は目立ち称えられるが、社会システムを新たに構築する人たちは目立たず失策のみを責められやすい。
 私としては、時に強い批判を浴びながらも粘り強く何かを創ることを推し進める人を最も評価したいと思う。