Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

親日罪と反日

 最近では「ネトウヨ中学生」とも言えるような生徒が先生を困らせているそうな(http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150114/Cyzo_201501_post_18048.html)。まあ、昔から小難しい論戦を先生に吹っ掛けて喜ぶ手合いはいくらでもいたのではあるが、行う生徒の方向性が左から右に多少移ったのかもしれないと思う。反体制が若者の特権だとすれば、現実がどうであるかは別として若者の一部は体制を保守派ではなくリベラル派や左派と見なしている可能性もある。
 確かに自民党政権が長期間続いているため保守派が政権を握り続けているように言われることもあるが、メディアで語られることもあるように自民党内部において保守からリベラルまで幅広い人材と意見を含み持っている。民主党もそれ以上の幅広さを併せ持っているが、自民党と比べると所属議員の自覚に大いに欠ける。
 党内ガバナンス(https://kotobank.jp/word/%E3%82%AC%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B9-2405)が機能しないのは、異なる意見を持つ存在同士がお互いを尊重し合っていない結果であるということが良くわかる()ガバナビリティがないと言っても良い。権力という甘い蜜に摺り寄っているのは保守もリベラルも変わらないのだろうが、個人の思想主張より国家の安定という共通認識があるかどうかは大きな違いなのかもしれない。

 さて、今回テーマとしたいのは「ネトウヨ」という言葉を生み出したようなネットを中心とした無責任な反日認定システムは、韓国における親日罪とは程度の差こそあってもベクトルは同じであろうということだ。サザンオールスターズ桑田佳祐氏の行動に批判が集中し謝罪騒ぎにまで発展しているが、アーチストが反権力志向を強く抱いているのは世の常である。
 個人的な感想を言えば、そこまで真面目に調べて考えているとも思えないので、社会的なインパクトが多少あるにしてもそれを糾弾するような動きには危うさを感じてしまう。多彩な言論が許されるのが日本の良さであり、これを失うことは中国や韓国に論戦で負けること以上に日本の将来を危うくする。

 韓国には親日罪という一般民主主義国家では考えられない遡及法が存在するが、日本に抵抗することを国の基本に据えている関係上彼らがそれをおかしいと思うことはないだろう。おかしいと言うことは自国のアイデンティティを揺るがす事態に陥ってしまうのだから、彼らにとってはそんな危険な賭に出るよりは日本を敵として定めておいた方がずっとマシである。
 再度書くが、最近増加している一方的な反日認定(あるいは韓国人・朝鮮人・在日認定)も実質的に反論の機会(異論)を与えないという点において同じ方向性を持っている。向こうは法律でこちらはネット上の馬鹿騒ぎといえば確かにその通りのレベルの違いはあるが、生み出すメンタリティが同じだとすればちょっとどうかと考えてしまう。あたかも同類が抱く近親憎悪や自己嫌悪のようなものではないか。

 別に韓国のやり方が正しいなんて言うつもりは更々無い(というか常識的には難癖に相当すると思っている)が、だからと言っておかしい部分に声を大にして反論するなら兎も角、同じ様な事を日本がする必要はない。これは思想的な純化を目指す一定のプロセスに陥りつつあるといった傾向を示している。すなわち、韓国は思想的な純化を行うことで引き締めなければ国内を安定させることができないということでもある。
 韓国がいつまでたっても反日でいると考える(真の和解があり得ない)理由はまさにそこにある。対話と融和を叫ぶ人は少なからず存在するし、別に私も対話を拒絶する必要など無いと考えるが、だからと言って話し合えば解決するなどと言う小学校の学級会のようなお花畑の議論をするつもりはない。
 韓国は韓国で自国の生き残り(あるいは国民を幸せにする)ことで必死なのだ。国民レベルの交流ならいざしらず、国家同士としては譲り合うつもりなど基本的に持ち合わせてはいない。如何に日本に勝つのかのみを考えている。それは産業的に競合関係にある関係上やむを得ないことでもある。だからと言って日本が譲歩する必然も存在しない。

 思想の純化を図っているなどと言う考えは、「反日○○」を面白げ(時に義憤により)に叫んでいる人も思っている訳ではないだろう。むしろ、誤った考えを正しているという正義に酔っているのだとすら思う。でも、日本にとってどのような考え方や行動が良いかは時と場合により変化する。ただ、少なくとも相手の主張を踏まえて議論することを止めてしまっては意味がない。
 時代が変われば見方が大きく変わることもあるだろう。私は何が正しいかを主張できるほど世の中を知っているとは自分で思っていない。もちろんそれでも、より妥当性があると思うことをここでは書いているつもりだし、それは考える事を止めないための方法でもある。
 レッテルに関して書いた時にも触れているが、思考停止により表面的なフレーズのみで物事を動かすことは個人でも企業でも、そして国家においても大きな失敗に繋がる。堂々巡りの悩みのループに入り込むことを奨めているのではないが、きちんと情報を集め分析して自分の頭で考えると言うことは何より重要であろう。

 物事を強烈に推し進める時には、一種の思想純化のように構成員皆の心を一つにする方が強い力を発揮できるのは間違いない。だから新興企業ではカリスマ性あるリーダーがその資質により多くの人を引っ張り何かを成し遂げる。良い面は強いリーダーシップによる素早い決断と大胆な行動と言えようが、逆を言えばそれがなければ立ち行かないという綱渡りでもある。
 他方、企業の存続に視点を向ければ多様な意見を受け入れられる素地が重要となる。その素地は、多様な意見を発することが認められる場所でなければ育たない。レッテル貼りで意見を封殺する事はその環境を壊していると言うことでもある。
 今、中国や韓国言論が日本で大きく報道されることが増え、また昔と比べるとライバル心むき出しの状況があるのは間違いないだろう。日本を良くしたいとは誰もが考える事ではあろうが、その方法は決して一つではないし、状況により取るべき手段はいろいろと変化する。
 ネットにおける反日の叫びは、一部に正論を含んでいるもののそれ以上に多様な言論の芽を摘み取っている行為だと言うことは考えておきたい。