Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

左翼とツッパリ

 レジスタンス(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%81%8B%E5%8B%95)とは第二次世界大戦後によく用いられるようになった比較的新しい言葉ではあるが、主に権力の横暴に対して抵抗することを示し今ではもっと古い時代の行為にも適用されている。ただし、第二次世界大戦時の他国の侵略に抵抗する行為を主に表す状況は現在も変わらない。
 レジスタンスという響きは悪政に対する抵抗というイメージが付きまとうが、必ずしも具体的な横暴が無くともレジスタンスは存在する。喩えとして適切かどうかはわからないが、他国の混乱を見かねて隣国が地域の平和を取り戻すべく相手国を統治し善政を敷いたとしても、結果として前よりも快適な生活が保証されたとしても状況を拒む運動は必ず存在しこれもやはりレジスタンスである。
 この喩え話は、レジスタンスが力や生命的苦境に対する抵抗に限られる訳ではなく、精神的な抑圧や自らの尊厳を傷つけられたことにも広げて用いられるということを意味する。無論この精神的な部分を無視するのは以下にもおかしな話ではあるが、同時に精神面の曖昧さがレジスタンスに対する同情的な意味を過度に拡大している感じがある。

 世界における英雄譚の多くは今で言うレジスタンスに関するものである。強大な敵に立ち向かう姿は、常に精神的あるいは権威的に抑圧された庶民の心を捉える。ただし、全くの一庶民がレジスタンスとして多くの人を率いて巨大な権力に立ち向かうジャンヌダルクのようなケースは必ずしも多くはない。
 むしろ何らかの地位と権力を有しながらも庶民の味方として立ち上がる姿であるなど、考え方によれば権力者の闘争を庶民目線から描いたものも少なくない。これは民主主義の生成と大きく関わっているということもあるのではないかと思う。
 逆に言えば、レジスタンスという概念そのものは民主主義という認識が普及したからこそ当たり前の様に受け入れられるのであろう。足軽の身から日本の支配者にまで成り上がった豊臣秀吉の話も、成功者としての羨望のイメージは存在するが、下剋上という時代背景はあるもののレジスタンスという認識はそこにはない。

 レジスタンスは、圧政(自国の権力者や他国からの侵略)に対する抵抗であるという一般認識はあるだろうが、それが常に善であり正義であるとまでは考えられていない。一定の立場にあればタリバンイスラム原理主義も一定の抵抗組織であると言えなくもない。しかし、他方から考えればこれらの勢力はゲリラであり平穏を乱す悪と考えることもできる。
 正義が普遍的でないのと同様にレジスタンスの正当性も、最終的には事後の歴史が証明するしかない。こんなことがあるかどうかはわからないが、世界の宗教がイスラム教に塗りつぶされる未来があるとすればタリバンが正義の戦士として評価されることもない訳ではない。「勝てば官軍」という言葉が全てを示すように、小さな善悪に関する普遍的な概念は存在するものの、ほとんどの場合大義の前にはそれは塗りつぶされてしまう。もっとも、レジスタンスが大きなムーブメントになってしまえば、その呼称はすでに適当ではないだろう。
 そして、官軍となることを狙って多くの勢力はしのぎを削っている。もちろんアメリカも中国も例外ではない。日本もかつてそれを目指し潰えた。だからこそ敗戦国として日本の考える概念を力により世界に受け入れさせることはできなかったし、今もソフトパワーを理不尽な力により潰されることも甘んじて受け入れている。ただ、日本という国家はその立場ややり方を変えることで経済的に復活した(世界におけるそれなりの地位を得た)のも言うまでもないことである。
 もっとも、だからと言って単純に力を振るえば良いというものでもない。現にそれを行う中国はトラブルメーカーとして世界的には認知されている(それ以上に利用して儲けようとする者の方が多いが)。

 さて、こうしたレジスタンスは多くの場合成功しないか、仮に成功してもその後の幸福を保証する訳ではない。例えば、キューバ国民を幸せと呼ぶべきかはいろいろな意見もありそうだが、思い描いていたような豊かな国になった訳ではないだろう。
 上手く行かないからこそその儚さが人々の心を打つという面もあろうが、レジスタンスはあくまできっかけであり目的でも手段でもないのではないかと感じてしまう。現実にはそこに命を捧げる人が少なからず存在し、得るものが薄いと言い切るのには抵抗がない訳ではないものの、「抵抗」に過ぎない実態では何かを構築することができるという確証を得ることは困難である。
 その目的の崇高性は別にして、レジスタンスの次をきちんと見据えていない限りは、ツッパリが学校の先生に楯突いているのと形式上大きな違いはない。確かに、先生は学生側からすれば面倒くさくて五月蠅い存在であろうが、そこに反抗したからと言って抵抗のみであれば何も生み出せる訳ではないのは誰もが知っているだろう。
 そして、抵抗の先にある行為はおそらく崇高な夢などではなく巨大な現実というものに向かう困難さだと私は思う。単純な抵抗は、その困難さに立ち向かう資格を証明はしない。ただ、不思議なことにこうした反抗のみであっても一定の支持を得ることはできる。それはレジスタンス幻想とでも言うべきかも知れないのだが、抵抗することがあたかも新しい何かを生み出すのだという幻想がそこには存在する。
 ツッパリ達がグループになっても、社会を敵に見立てた共同意識は生まれるものの、そのグループには場合によっては敵と見立てた社会以上の格差があったりする。ここまで来ると、幻想と言うよりはそこにしか逃げ場がないという一種の宗教的な共同意識に近いのかも知れない。

 自らが敵と設定した理由付けの正当性はそこでは疑われることはない。逆に言えばその正当性が崩れれば自らの行為そのものが崩されてしまう。それは、自己の存在意義の崩壊に等しい。現実には全くそんなことはないのだが、敵を定めることでしか自らの行動や鬱屈した不満を正当化できない状況がある。
 そして、この状況が私からすれば左翼的な言論や行動をする人たちの間にも垣間見える。もちろん、ツッパリと同じ様な暴力的な行動原理を取っているとは限らないが、敵の設定についてはほぼ同じ様な流れにある。別に敵を設定するのも自らの正当性を主張するのも、公共の福祉を害さない限りにおいて日本では一定の自由が与えられているのは間違いないが、その敵を倒した後の堅実な処方箋が見えてこない。夢物語しかでてこないのは必ずしも左翼とは言えないレベルであった民主党政権ですらあの調子である。

 実は彼らが敵とみなしているのは、現在の権力ではなくて現在の社会そのものではないかと感じてしまうのは私だけなのだろうか。もしそうならば、それは彼らがおそらく見下しているであろうツッパリ達と何も変わらない。