Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

劇場型政治の功罪

 政治はいつの時代でも劇場型の要素を強く持っていることは民主主義の時代になる前の時代からでもほとんど変わりない。もちろん現代社会では政治家のみでは舞台は片手落ちであり、劇の外から指揮を振るマスコミという自称プロデューサーが控えていて、時には役者たちの承認を得ることなく筋書きを仕立てる。プロデューサー自身はそれほど大きな嘘をつく訳ものではないが、取り巻きたちは真実と嘘を見事に絡めて好き勝手に劇を盛り立てようとする。
 とは言え、先日の都知事選では政治ショーは最初の導火線に火がつかなかったせいだろうか目立つものではなかった。ショーのキモである小泉元総理の神通力が既に失われたためとも取れなくはないが、それでも細川元総理を担ぎ出すのではなく小泉元総理自身が立候補をしていたらかなりの善戦をしていたのではないかと私は思う。彼の政策を正しいとも良いともほとんど思うことはないが、それでも社会において個人としての人気はそれなりに健在だと思うのだ。
 ただ、今回の筋書きにおいては小泉元総理を立会演説に一目見に行っても細川元総理に票を入れる訳ではない。元総理タッグの絵を描いたのが小沢一郎氏だったのか、中川秀直氏が小泉元総理を焚きつけたのかなど今ひとつわからない面も多いが、少なくとも小泉の影響力を構図を夢見た者達が見誤っていたのは間違いないだろう。そして選挙戦序盤で誰の目からもそれは明らかになっていた。

 だから2つの意味において、マスコミが全面的に細川陣営を応援する(裏支援する)というところまで踏み切らなかったのは納得がいく。民主党の消極的支持があったというネガティブ要素も存在したとは言え、過去の例ほどにはメディアによる反舛添の雰囲気は形成されなかった。世論が早期に読めたこともあろうが、同時に企てのメンバーが類推されていたのだとすれば、マスコミが白けて踏み込めなかったのもまたわかる気がする。
 さて、政治に元々ショー的要素が強いのは多くの人々の賛同を得なければ大きな政策などを実行しえないことが背景にある。間接選挙制が直接選挙システムに近づけば近づくほどショー的な要素がウエイトを高める。都知事選は直接選挙であるので、総理大臣を選ぶこと以上にショー的な要素が候補者側からも選挙民側からも、そして第三者的であるべき報道側からも口には決して出さないものの期待される。マドンナ旋風も、小泉劇場も、単に能力があったり面白い政治家がいるだけでは決して成立しない。政治家と有権者とそしてマスコミの心理的な利害が一致したときにのみ生み出される。

 もっとも政治的無関心が一時期持て囃されていた(ネガティブな意味において)が、若者たちは一部ではあるものの政治に多少の関心を抱きつつあるように感じる。劇場型の政治の問題点を感じつつも、この劇場型という観客も参加して組み立てていく政治形式は政治を無味乾燥化させないためには必要な要素でもあろう。
 田母神氏が今回の都知事選において若者からかなりの得票を得たことは、一部メディアなどは触れたくもない(あるいは右傾化と批判の対象にする)だろうがこれもまた事実である。この事実がもたらす意味は、特定の思想の人たちにとっては考えたくもない未来像を映し出しているだろう。
 私としてはそれこそが中道的な状況へのようやく至った回帰だと考えるが、現状を中道だと信じたい人たちにとっては悪夢ではないか。今後10年後には同じような投票行動を行う若者がもっと増えることになるだろうと予測されるのだから。
 ネット情報の拡散(あるいは一部の過激な言動の伝播)などが理由に祀り上げられるのだろうが、劇場型の政治がきっかけを与えネットの情報が隠されてきた矛盾を暴き、これらの情報から判断した若者の行動が今までの典型的な様式と異なっているに過ぎない。すなわち、現状から見えてくるものは結局のところ劇場型政治と同じように時代の構造が生み出した結果なのだ。
 もしマスコミが現状を否定するとすれば、それは自らが生み出した結果を自らが否定している、すなわち自己否定に等しいと思う。