Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

楽しいと言え!

 不平不満や愚痴は世の中に溢れているが、それが現状を解決するどんな道具にもなりえないことは誰もが知っていることだ。むしろ負の感情は自分自身にダメージを少しずつではあるが刻み込んでいく。口から発したネガティブな言葉は、それが言霊という訳ではないが自分の耳を通じて自己の無意識の中に蓄積していく。
 よく、子供は褒めて伸ばそうという教育論が議論となる。確かに褒めることは非常に大切なことではあるが、褒めるだけでは片手落ちだと個人的には思う。言葉の使用法としては間違いかも知れないが、結局のところ「アメとムチ」の適切な使い分けにより良い方向に導くというのが理想ではないか。もちろん、子供の資質に応じてアメ(褒める)を多く使用すればよい場合もあろうし、逆にムチ(叱る)を多用した方が良い場合もあろう。もちろん、状況に応じてその配分を調整するその匙加減が何よりも重要だと思う。

 ただ、愚痴が単に心に溜め込んだ不満を放出することで心の負担が軽減されればそれなりの効用も確認できようが、不満を自らに再度吸収させてしまうようでは本末転倒である。ストレス解消レベルのもので留めるのが愚痴の正しい使い方と言えよう。ネガティブな思考を自らの頭と口で咀嚼する行動は、その言葉が副流煙のように自らを蝕むことになる。
 逆に考えれば、プラス思考でポジティブな考え方が心と体で複数回感じることができれば、難しい仕事やチャレンジでもやり遂げる勇気も生まれていくきっかけとすることもできる。愚痴のネガティブな効用を逆に利用しようとするものだ。
 アメとムチの場合と同様に、自らを甘やかすためにこうした方法論を用いるのは良くないかも知れないが、人はおおよそ心の中では自らを甘やかし(アメ)外向きには叱咤のポーズを取る(ムチ)。甘やかし方について良かった点を素直に誉めるポジティブなものであれば決して悪くないと思うが、多くの場合には良くなかった点を誤魔化す方向に用いられる。意識か無意識かはわからないが、こうした欺瞞を心のどこかは確実に捉えており矛盾は心理内に蓄積される。
 矛盾を避けようとすれば、益々心の中でそれを誤魔化す行為が積層される。自己欺瞞の発生である。一時的なそれは必ずしも害悪のみではないが、長期にわたる蓄積は間違いなく個人としての資質を毀損する。それは自分自身が無意識に認識する真実から目を逸らし、すべきであることを誤魔化しているという面もあるが、多くの場合バランスを取ろうとして外面では自分の至らなさを振りまくようになってしまうのだ。心の中では自分を擁護し続け、他者に向かっては自分を叱責するポーズを取る。この複雑さは、あたかも絡まった釣糸のごとく解きほぐすのに苦労することになる。

 まずは、自分の耳に入る言葉と心の中に生じるイメージの一致を図ることが重要ではないだろうか。建前と本音を持つのは誰しもではあるが、それが自己矛盾にまで拡大すると面倒なのだ。
 もっとも、だからと言って「私は悪くない」などと口に出して言いまくれば社会的な軋轢を引き起こすこともまた間違いない。よほど面の皮が厚くなければ口に出せる言葉には限界があり、結果的には心の中で考えることと口に出すことの歩み寄りが必要となる。
 こうした時に私が最も良いと思う言葉が「楽しい!」である。悪い悪くないやできるできないと言った善悪や成否に関わる言葉ではないため、誰に対しても嫌みがなくその上で自らに対してもポジティブな言葉である。確かに本当に心の中で楽しめているかどうかはには少々疑問があるが、最低でも上記の自己欺瞞のように内に甘さを外に厳しさをの逆を行こうとしているのである。そして、口に出して言う言葉は徐々にでも心の中に染み込んでいく。単なる言葉ではあるが、それでもお世辞であると判っていても嬉しいようにネガティブな思考を引き上げるサプリメントとして働くだろう。
 こうした現象は言語心理学(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%90%86%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)という学問があり、そこでも様々な研究が行われている。研究自体は言語という形態を通じて認知や理解から心の動きまで人間心理の本質を探究しようとするものであるが、その応用としてポジティブさが生み出す効能が様々な場所で語られる。

 とりあえずは「楽しい」と口に出して言うこと。そしてそれが真実になるように努力をする。これこそが、プラスのスパイラルを生み出す魔法の言葉ではないだろうか。