Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

便利さと独裁性

 独裁制と民主制のどちらが良いかを現在の日本人に尋ねたとすれば、独裁制を選択する人はかなり限られた一部の人となるであろうことは想像に難くない。しかしながら、現実の世界ではこうした理想形を取ることはできずに容易に民主化すらが行えないという日常もある。一時もてはやされたアラブの春は政治の混迷を引き起こしたし、世界の国々を見たとき先進諸国には民主制が多いかもしれないが、実質的な国家体制としては独裁制の方がむしろ多いのではないか。
 例えば、中国は個人による独裁ではないものの共産党による実質的な独裁制であるし、北朝鮮は言うまでもない。またシンガポールもかなり独裁制の強い社会であり、アフリカにも多くの独裁国家がある。中東地域も一部の独裁者が政治を取り仕切っているところは少なくない。サウジアラビアクウェートも王族が支配しているという意味では穏健ではあるが独裁制と言える。
 エジプトも少し前まで大統領制を採用していたが民主的ではなかったし、今もその状況に回帰しようとしている。

 もっとも、独裁制とはいってもそれが必ずしも国民にとっての不幸を意味するとは限らない。実際、民主制でも国民の意見は無視されることは少なからず存在することを私たちは知っているし、独裁制だからこそ良い政策を間断なく行える可能もある。中国の歴史的における理想形の政治であり孔子の統治論でもある「徳治主義(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E6%B2%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9)」は徳をもって国を治めるが実態は君主制であるが、同時に多くの場合は中央集権型で王権至上の政治制度でもある(それでも国民のための政治は可能であり、人気を得ることもできるであろう)。
 こうした様々な事例はあったとしても、建前上は民主的な政治が良いことは言うまでもない。多くの住民の意見が反映されるということは、それが無視や封殺されにくいという意味で国民の権利が保障されることを意味する。しかし国民エゴが激化すれば、そのメリットは国家の停滞を推進する。昨今の日本が直面する決められない政治は、民主制の負の側面が多く露呈している状況だとも言えなくはない。

 さて、政治の仕組みからは話が離れるが現代社会における便利さとは何だろうか。インターネットにより情報の便利さは格段に広がった。かつては一部のマスメディアが独占(加工して放送)していたニュースを、多くの人がオリジナルに触れる機会を得て確認することができるようになった。確かに現代でもソースを当たる労力は容易に捻出しがたく、メディアの果たす役割が著しく低減したわけではないが、情報アクセスの自由度は大きく広がった。
 しかし、現実の社会においける情報管理はむしろこうした情報アクセスの場合とは反対に、生活の利便性を求めて集中管理がなされる方向に進むケースの方が多い。先日、アメリカでの無断通信傍受などの情報収集活動が暴露されたが、利便性を追い求めると情報は分散管理されるよりも一括管理される方が扱いやすい。しかし、情報の一極集中は利便性が向上するのと同じだけ万が一の事態が生じた際の被害は大きくなる。
 クラウドコンピューティング(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%89%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0)の概念もあるが、この場合でも分散しているのは情報へのアクセスビリティであって保存された情報は集中する。私自身この分野の専門家でもなんでもないが、災害時などを想定してミラーサーバーを置くとしても、情報のクローンが存在するというだけで情報の一極集中状態が変わるわけではないと思う。

 この状況を考えたときに、情報の利便性というものは政治の形態によく似ているのだなと感じさせられる。政治の場合でも、果断なき施策の遂行には独裁制の方がずっと適している。権力が一極に集中しているため無駄が少ないという訳だ。
 当たり前のことではあるが、便利であるということは合理性の徹底的な追求により成し遂げられる。無駄を省けば省くほどに便利になっていくが、それは特定の状況に特化するということもである。結果的には、その特化が最善であれば最も効率的かつ有効な状況を生み出すが、方向性に少しでもずれが生じてしまえば途端に目論見が狂ってしまう。
 歯車に常に「遊び」が必要とされるように、ガチガチの合理化は却って脆弱性を示してしまうものである。これは情報の扱いもそうだし、政治形態についても同じことが言える。多少不合理性が残っていたとしても、それが変化に対応するための重要な因子となり得るのである。
 もちろん、そのための因子が確実に残されているのかと問われれば疑問に思うこともいろいろととない訳ではないのだが、こうした点については忘れずにいたい。